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港区探訪

港区の偉人

第2回 北里柴三郎(細菌学者)(1853~1931)

写真

▲上の写真は港区のどこかで撮影しています。さて、どこでしょう?答えはこちらをクリック

「学問と云うものは全く世界的なもので国境が御座いませぬ。」

コッホ記念講演会(1917年)開会の辞

「医の基本は予防にある」という信念のもと、実践的な研究で感染症予防・治療に関する数々の世界的業績をあげた日本の近代医学の父。研究所や大学での教育にも力を尽くし、野口英世や志賀潔といった弟子を育てた。

北里柴三郎(細菌学者)写真

「医者と坊主には絶対にならない」
サムライへの憧れと医学との出会い

北里柴三郎は、幕末期の1853年、肥後国(熊本県)阿蘇郡北里村の旧家に長男として生まれました。幼少の頃より漢学を学ぶ一方、熱血漢で暴れん坊だったという柴三郎は武士として名を成すことを志し、「医者と坊主には絶対にならない」と言い放っていたといいます。しかし両親は医者の道を勧め、柴三郎を熊本医学校に入学させました。

医学校で柴三郎は、自らの運命を変えることになるオランダ人軍医のマンスフェルトに出会います。彼は柴三郎の才覚を見抜き、顕微鏡を用いて動植物の細胞を見せ、医学の素晴らしさを説きました。このことがきっかけで、柴三郎は微生物の世界に興味を持つようになります。

キーワード:きっかけ

1858〜59年にはコレラの世界的大流行があり、柴三郎自身も弟2人と妹を立て続けに亡くしています。このことが後に彼を医学の道に進ませるきっかけとなったのかもしれません。

東京での奔放な学生生活
内務省を経てドイツ留学へ

1874年、柴三郎は後に東京大学医学部となる東京医学校に入学。ここでは、いたずらが過ぎるとして叱りに来た寮監を逆にやりこめる等、奔放なふるまいで教師を困らせていましたが、一方で勉学に精を出し、「医者の使命は病気を予防することにある」と考えるようになりました。8年間の勉学を終え、就職先に選んだのは内務省衛生局でした。そこでヨーロッパの医療衛生に関わる情報収集、報告業務に従事しながら細菌学を学び、ドイツ留学の切符をつかんだのです。

ドイツに渡った柴三郎は、細菌学の大家であるロベルト・コッホに師事。研究所では、師の提示するテーマに沿って弟子たちが実験を重ね、チームワークによって研究が進められていました。柴三郎の実験への取組み方は非常に緻密なもので、勤勉で知られるドイツ人も驚嘆の声をあげるほどでした。

ロベルト・コッホ

キーワード:ロベルト・コッホ

炭疽菌、結核菌、コレラ菌等を発見した、「病原微生物学の父」。感染症の原因を突き止めるための「コッホの4原則」を提唱し、医学の進歩に大きな影響を与えました。

困難といわれた破傷風菌の純粋培養に成功
感染症治療の道を開く

柴三郎はコッホのもとで、破傷風の原因となる微生物を特定するために、菌を取り出して増やす「純粋培養」を行うことになりました。自ら実験器具を考案し、寝る間も惜しんで実験に取り組んだ結果、ついに破傷風菌の純粋培養に成功したのです。さらに、菌が出す毒素によって体内に免疫ができることを発見。免疫を持った動物からとった血清により毒を中和し治療する「血清療法」を確立しました。

柴三郎が考案した嫌気性菌培養装置(模型)

キーワード:純粋培養

破傷風菌は1884年に発見されていましたが、この菌だけを取り出して増やす「純粋培養」はとても困難といわれていました。

帰国後も医学の発展に貢献
「北里研究所」を設立

大きな成果を上げ、柴三郎は帰国。伝染病研究所の設立を目指す柴三郎を援助したのが、 福澤諭吉でした。自身の所有する芝公園内の土地に伝染病研究所を建設、企業に研究用の機器の寄付を働きかけ、柴三郎を厚く支援しました。柴三郎はその後も、ペスト菌を発見する等、予防医学の先駆者として活躍します。

1914年、伝染病研究所の所長を辞し、私立の北里研究所を設立。また、慶應義塾大学の医学科創設に尽力し初代学部長となる等、日本の医学の発展に大きく貢献しました。1931年、柴三郎は麻布の自宅にて78歳で永眠。青山墓地に葬られました。北里研究所の創立50周年記念事業として開学した北里大学は、特別栄誉教授を務める大村智博士が2015年10月にノーベル生理学・医学賞を受賞する等、現代においても最先端の研究の場となっています。

北里研究所創立当時建物

偉人の足跡

コッホ・北里神社

柴三郎が師であるコッホを悼んで建てた神社。自身も一緒に祀られています。

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港区白金5-9-1 (北里大学 白金キャンパス内)
TEL 03-3444-6161(代表)
東京メトロ南北線・都営地下
鉄三田線「白金高輪駅」10分
ちぃばす 麻布西ルート「光林寺」3分

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写真の答え!
雷神山児童遊園(白金)

平安時代、疫病を鎮めるために雷神を祀った雷(いかずち)神社が建てられ、この一帯は雷神山と呼ばれていました。現在は児童遊園として生まれ変わり、「雷神のモニュメント」がそのシンボルとなっています。

雷神山児童遊園

参考:「北里柴三郎―熱と誠があれば―」(ミネルヴァ書房)「難病に取組み医学を発展させた人たち」(ニュートンプレス)
取材協力・資料提供:学校法人北里研究所