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オランダ人との砲術談義から
伊豆国韮山代官。坦庵(たんあん)の呼び名でも知られる。善政をしく一方で、沿岸防備の重要性を説き、台場や反射炉の築造に尽力。天然痘を予防する種痘の普及にも努めた。
行軍時の食糧として乾パンを焼いたことから、日本の「パン祖」とも呼ばれている。
伝江川英龍自画像
(公益財団法人 江川文庫所蔵)
江川英龍は、伊豆国韮山の代官(幕府直轄地を管理する役人)の家に1801年に誕生しました。父・英毅(ひでたけ)は文人や画家と交流を持ち、自身も音楽を嗜む風流人でした。その影響からか、英龍も幼少時から絵の才能を見せています。一方、母・久子は謙虚な良妻賢母で、子どもたちを甘やかすことなく、しかし十分な愛情をもって育てました。こうした両親の教育が、幅広い分野に興味を持ち、目標を達成するための努力を惜しまない英龍の気質を作ったといえるのかもしれません。
代官を務める江川家の当主は、代々「太郎左衛門」を名乗っています。英龍は次男でしたが、兄の病死によって跡継ぎとなり、1835年、第36代江川太郎左衛門として韮山代官に就任しました。当時、関東は天保の大飢饉に見舞われ、支配地に隣接する甲斐国(山梨県)で百姓一揆が起きる等深刻さを増していました。この事態に英龍は、身分を隠して自ら甲州を回り民情を視察。私益に走る有力農民や役人に対する過剰な供応を一掃し、自身は質素倹約を徹底します。さらに有志から金・銀・米穀等を融通させ、貧富の差から生まれる対立を緩和することで騒動を未然に防ぎました。
この善政に感服した民衆は、寺院に「世直江川大明神」と書いた幟(のぼり)を立て、英龍を大いに賞賛しました。
江戸後期より、日本には外国船が多く来航しました。海に面した支配地を治めていた英龍は海防への意識も高く、幕府に対してたびたび意見書を提出していました。開国の是非をめぐる言論弾圧事件、いわゆる「蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)」によって厳しい取り調べを受けますが、時の老中水野忠邦の配慮で難を免れました。
1841年、出島の防衛を務め、砲術の第一人者であった長崎の高島秋帆(しゅうはん)が、江戸で大規模な砲術演習を行いました。これを見学した英龍は、幕命により同年秋帆に入門し、高島流砲術を皆伝されます。その後自邸を家塾として開放し、自身も試射や研究を重ねながら、高島流砲術の伝達に励みました。
ペリーが来航した1853年、英龍は幕府海防掛(かかり)勘定吟味役格に任命され、品川から深川にかけての12基の台場(砲台を据えた人工島)の設計に着手します。幕府の財政難により、第四、第七台場は未完成、第八以降は未着工となりましたが、1854年12月、6基の台場が完成。さらに、銃砲を鋳造するための反射炉の必要性を幕府に説き、下田で築造にあたりました。建設地の移動や天災による中断もありましたが、工事は英龍の故郷である韮山で続けられました。
1855年に安政の大地震が発生し、津波で損壊したロシア船の乗組員救済のために「ヘダ号」の造船を指揮する等、この頃の英龍は多忙を極めました。過労がたたってか、船や反射炉の完成を見ることなく53歳でこの世を去ります。しかし反射炉の建設は息子の英敏(ひでとし)に引き継がれ、1857年に稼働を開始しました。親子2代で完成させた韮山反射炉は、今もその姿を残しています。貴重な史料であるとして1922年に国指定史跡に、2015年には世界文化遺産に登録されました。
今も残る2つの台場のうち、第三台場は史跡公園として開放されています。砲台跡や火薬庫跡等を見ることができます。
港区台場1-10-1
ゆりかもめ「お台場海浜公園駅」12分
りんかい線 「東京テレポート駅」15分
参考:「幕末の知られざる巨人 江川英龍」(角川マガジンズ) 協力・資料提供:公益財団法人江川文庫