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港区探訪

地図で見る港区いまむかし

第二回 高輪

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▲上の写真は港区のどこかで撮影しています。さて、どこでしょう?答えはこちらをクリック

「江戸切絵図」は、江戸の町をいくつかに区分けして作成された詳細な地図。江戸末期に刊行され、当時の様子を今に伝える貴重な史料です。
150年前の東京はどんな町だったのでしょうか。古地図を片手に、当時の港区を訪ねてみましょう。

「忠臣蔵」赤穂浪士たちが眠る地

港区南東部の高輪エリアは、江戸元禄期に起きた「元禄赤穂事件」、いわゆる「忠臣蔵」にゆかりが深い町。赤穂藩主 浅野内匠頭(たくみのかみ)(長矩)(ながのり)と、主君のために志を遂げた浪士たちが最期の時を過ごした地です。大石内蔵助(くらのすけ)親子をはじめとする、四十七士の足跡をたどります。

「芝三田二本榎 高輪邉繪圖」

「芝三田二本榎 高輪邉繪圖」

江戸切絵図 尾張屋(金鱗堂)板
嘉永3(1850)年刊行

[1]元札辻:江戸初期、幕府からの通達等を掲示する高札が立っていた辻です。

[2]大木戸:東海道から江戸への入口。伊能忠敬による日本全土測量の起点となりました。

[3]御殿山:海に臨んだ景勝地として知られていました。切絵図にも「櫻ノ名所ナリ」と書いてあります。

越前手漉き和紙製
「江戸切絵図」(港区)

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[昔] 細川越中守(えっちゅうのかみ)下屋敷
[今] 都営高輪一丁目アパート(大石良雄(よしたか)ほか十六人忠烈の跡)

元禄14(1701)年、藩主・浅野内匠頭が江戸城内で刃傷に及んだ罪で切腹させられ、赤穂藩は断絶。翌年、浪士となった47名の家臣が宿敵・吉良上野介(こうずけのすけ)(義央)邸に討ち入り、仇をとりました。その後浪士たちは四大名家預かりの身となり処分を待つことに。筆頭家老・大石内蔵助(良雄)以下16名を預かった熊本藩 細川越中守の下屋敷(い)では、親類との連絡や読書もできるよう、浪士たちを手厚くもてなしたといいます。元禄16年2月4日(西暦1703年 3月20日)に命が下ると、全員がその日のうちに切腹しました。現在、屋敷跡は都営高輪一丁目アパートとなっていますが、敷地の奥に庭の一部が保存されています。

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[昔] 松平隠岐守(おきのかみ)中屋敷
[今] イタリア大使館(大石主税(ちから)以下切腹跡)

内蔵助の長男で、当時16歳だった大石主税(良金)(よしかね)は、四十七士の中で最年少。主税を含めた10名が、伊予松山藩 松平隠岐守の中屋敷(ろ)の預かりとなり、内蔵助と同日、この地で切腹しました。主税の最期は若年ながら堂々たる様子だったと伝えられています。現在この場所に建っているのはイタリア大使館。敷地内にある庭は彼らをしのんで「浪士庭」と呼ばれており、毎年の命日には駐日イタリア大使が供養を行っています。

[昔] 泉岳寺
[今] 泉岳寺(現存)

命をかけて主君への忠誠を示した浪士たちは、泉岳寺(は)に葬られました。泉岳寺は浅野家の菩提寺であり、彼らが討ち入り後に墓前での報告のため目指した地でした。墓所は預かりとなった大名家ごとに四区画に分けられ、一段高い場所に主君・浅野内匠頭と妻・瑤泉院の墓があります。戒名は当時の泉岳寺住職が、禅の語録から「刃」「剣」の二字を引用してつけました。毎年春と冬には、彼らの供養を行い、魂を慰める「赤穂義士祭」を開催。四十七士に扮して練り歩く義士行列の姿はとても勇壮です。当日は全国から訪れた参拝者が墓前で手を合わせ、義を重んじ忠を尽くした赤穂浪士たちに想いを馳せます。

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解明!地名のひみつ
「高輪」

かつてこのあたりに通っていた旧奥州街道が高台の縄手道(なわてみち)(縄を引っ張ったようにまっすぐな道)であったため「高き縄手」と呼ばれており、のちに「高縄」、さらに「高輪」に転じたと言われています。

街道沿いに植えられていた2本の榎にちなみ、付近は「二本榎」と呼ばれていました。現在は地名が変わっていますが、高輪一~三丁目の「二本榎通り」にその名前を残しています。

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写真の答え!
白金アエルシティ

アーティスト・松田重仁さんによる「生命の風」という石の彫刻。新しい生命の象徴を表現しています。

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参考:「嘉永・慶応 江戸切絵図」「切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩」(人文社)「郷土史読本 港区の今昔」(宮本光敏)「江戸東京 残したい地名」(自由国民社)