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港区探訪

地図で見る港区いまむかし

第三回 芝・愛宕

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▲上の写真は港区のどこかで撮影しています。さて、どこでしょう?答えはこちらをクリック

「江戸切絵図」は、江戸の町をいくつかに区分けして作成された詳細な地図。江戸末期に刊行され、当時の様子を今に伝える貴重な史料です。
150年前の東京はどんな町だったのでしょうか。古地図を片手に、当時の港区を訪ねてみましょう。

激動の幕末、日本を動かした人物たち

嘉永6(1853)年に黒船が来航し、日本は未曽有の動乱期を迎えました。ここ港区も、時代の転換点ともいえる重要な歴史の舞台となりました。芝・愛宕エリアに残る史跡は、幕末の日本を動かした人物たちの生きた証でもあります。

「芝口南西久保 愛宕下之圖」

「芝口南西久保 愛宕下之圖」

江戸切絵図 尾張屋(金鱗堂)板
万延2(1861)年刊行

[1]濱御殿:元々は徳川家の鷹狩場でしたが、明治維新後に皇室の離宮(浜離宮)となりました。(現在は中央区)

[2]遠山金四郎:時代劇等の「桜吹雪」でおなじみの名奉行、「遠山の金さん」の屋敷。民の立場に立った決裁を行いました。

[3]中ノ橋・赤羽橋・将監橋・金杉橋:地図下方、現在の古川に架かる4つの橋は、いずれも江戸時代からの名を残しています。

越前手漉き和紙製
「江戸切絵図」(港区)

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5,200円(税込)

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[昔] 愛宕(あたご)山
[今] 愛宕山(現存)

標高26mの愛宕山(い)は、23区内で自然地形としては最も高い山。かつては江戸湾や房総、筑波山まで一望できたといいます。頂上にある愛宕神社は、慶長8(1603)年に、江戸の防火と徳川軍の戦勝を祈って建立されました。安政7(1860)年3月3日の「桜田門外の変」を起こした水戸浪士ら18名は当日早朝、この愛宕神社に集結。計画の成功を祈願してから江戸城方面へ向かいました。季節外れの雪の中、直訴を装った浪士たちが大老・井伊直弼の駕籠(かご)を襲撃。動乱の時代が幕を開けたのです。

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[昔] 増上寺
[今] 増上寺(現存)

増上寺(ろ)は、浄土宗の大本山で徳川家の菩提寺です。入口の「三解脱門(さんげだつもん)」は国の重要文化財に指定されています。6人の将軍とともにここに眠るのは、孝明天皇の妹で第14代将軍家茂の正室・和宮親子 内親王(かずのみやちかこ ないしんのう)。幕府と朝廷が一体となることを目指し、外国人を排斥する「攘夷(じょうい)」を条件に進められた政略結婚でした。文久元(1861)年、数千人の花嫁行列が京を出発。約2ヶ月の道のりで江戸城に入り、翌年2月、将軍家茂との婚儀が行われました。二人は仲睦まじく、長州征伐に出た家茂の無事を祈って和宮が増上寺にお百度参りをした記録が残っています。幕府の復権をかけた降嫁でしたが、前後して攘夷運動が過激化し、世はさらに混迷を極めていきました。

[昔] 鉄砲調練場
[今] イタリア公園

伊豆国韮山代官の江川英龍(ひでたつ)は、品川砲台(お台場)の築造に関わる等西洋砲術を発展させました。洋式砲製造のため反射炉を建造したり、佐久間象山(さくま しょうざん)や川路聖謨(かわじ としあきら)といった大物に砲術の指南をしたことでも知られています。芝に作られた調練場(は)は、英龍の遺志を継いだ息子の英敏(ひでとし)が設けたものです。現在その一部は、日伊合同のイタリア紹介プロジェクトを記念して寄贈された「イタリア公園」として、人々の憩いの場となっています。

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解明!地名のひみつ
「浜松町」

増上寺の門前町であるこの町は、もともと増上寺の代官であった町の名主の名前から、久右衛門町と称していました。元禄9(1696)年に名主が代わり、権兵衛という人物が務めることになりました。

この権兵衛が、遠州浜松の生まれだったことから町の名前も「浜松町」に改まりました。名主の交代で地名が変わるのは異例なことですが、前例にならえば、「権兵衛町」となっていたかもしれません。

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写真の答え!
虎ノ門ヒルズ

ジャウメ・プレンサ氏の大型彫刻《ルーツ》(2014年制作)。世界の多様性を表す8つの言語の文字が、膝を抱えて座る人間をかたどっています。

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参考:「切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩」(人文社)「古地図で歩く 江戸・東京 歴史探訪ガイド」(メイツ出版)「郷土史読本 港区の今昔」(宮本光敏)「総図解 よくわかる 幕末・維新」(新人物往来社)「東京地名考 上」(朝日新聞社会部)