ここから本文です。

港区探訪

港区今昔STORY

第9回 芝丸山古墳

芝丸山古墳 写真

芝丸山古墳を横から眺めた様子。手前が前方部で、稲荷神社より奥が後円部。

間近で見られる古墳時代の遺跡

都立芝公園の一角にある芝丸山古墳が築造されたのは約1700年前。木々に囲まれ、一見すると森のようですが、公園として整備されており古墳の上でひと休みすることもできます。今回は、東京都指定史跡でもある芝丸山古墳の歴史と見どころをご紹介します。

古墳時代の有力者をまつる前方後円墳が
誰でも気軽に足を運べる公園に

全長約106メートルもある芝丸山古墳は、都内最大級の前方後円墳で、4世紀後半に作られたものと考えられています。戦後の土地開発によって墳丘の一部が損なわれていますが、現在でも後円部の丸い地形や、それに続く前方部が高台となって残されています。

日本の考古学の先駆者である坪井正五郎がこの古墳の存在に気付いたのが明治26年。その後、東京府知事の依頼で明治31年に発掘調査を行いました。ただしこの調査では、江戸時代の切石や寛永通宝(通貨)等が発掘されたものの、古墳時代の埋葬品は出ませんでした。東京都教育庁学芸員の平田健さんによると、寛永通宝が江戸時代に建てられた増上寺の五重塔と同年代のものであることから、当初は五重塔が古墳の上に建造される予定であり、その工事の際に古墳時代の埋葬品は掘り出されてしまったのではないかと推測されているそうです。

芝丸山古墳発掘時に撮影されたと推測される写真/芝丸山古墳の測量図

(左)明治31年に行われた芝丸山古墳発掘時に撮影されたと推測される写真。出土した切石の上に立つのが坪井正五郎です。
個人蔵「学習院大学史料館寄託」(港区立郷土歴史館特別展『港区と考古学』3頁 転載)

(右)芝丸山古墳の測量図(赤ラインは編集部による)。西側が削られてしまいましたが、前方後円形がよくわかります。
「東京都教育委員会所蔵」(東京都教育委員会1985『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸-』193頁 転載)

死者と共に埋葬された品が出土していないため、芝丸山古墳に眠る人物像は明らかではありませんが、大規模な前方後円墳であることと、かつての海岸線に近く海を見渡せる高台に築造されていることから、海上交通や流通を掌握していた有力者ではないかと考えられています。

現在、芝丸山古墳は公園として整備され、誰でも気軽に利用できる憩いの場となっており、住民の散歩コースとして、また海外から訪れた人の観光の場としても人気です。

周辺には見どころがいっぱい
2月下旬には梅まつりが開催

芝丸山古墳のふもとには、縄文時代の暮らしを今に伝える丸山貝塚や、約70本の紅梅・白梅が植えられた梅林等、見どころがたくさん。「銀世界」と銘打った石碑が建つこの梅林には、2月中旬から3月にかけて梅の花が咲き誇り、訪れる人々の目を楽しませます。見ごろを迎える2月21日(金)・22日(土)には毎年恒例の「芝公園梅まつり」が開催されますので、ぜひチェックしてくださいね。さらに、徳川家康をまつった芝東照宮や、関東有数のパワースポットである増上寺も隣接しています。天気のいい日には、梅の花に春の訪れを感じつつ、縄文時代から続く港区の歴史を体感できる芝公園へと足を運んでみてはいかがでしょうか。

丸山貝塚 写真

芝丸山古墳の東南斜面に広がる丸山貝塚。平成9年に行われた発掘調査で縄文時代中~後期の貝塚であることがわかりました。この地での人間の暮らしを現代に伝える最も古い遺跡です。

学芸員平田さんと芝丸山古墳 写真

学芸員である平田さんは「芝丸山古墳は、前方後円墳を真横から眺められ、しかも墳丘に登ることもできるとても珍しいスポットです。古墳時代の人たちに思いをはせにぜひ訪れてくださいね」と語ります。

明治時代の芝丸山古墳の後円部を描いた図

現在の後円部墳丘上の広場 写真

(上)明治時代の芝丸山古墳の後円部を描いた図。墳丘の上が広場になり、数軒の茶店も出て、人々が楽しそうに過ごしています。茶店ではビールやワインも販売されていたそうです。
(出典:『新撰 東京名所図会』第七編、明治30年7月 東陽堂発行)
(下)現在の後円部墳丘上の広場。中央には古墳発掘の記念碑、北端には伊能忠敬の功績をたたえる石碑が設けられています。

芝東照宮 東京都指定天然記念物のイチョウの木 写真

芝丸山古墳の隣に鎮座する芝東照宮。境内には、3代将軍徳川家光が植えたとされる、東京都指定天然記念物のイチョウの木が。

芝公園梅まつり

芝公園梅まつり 写真

2020年2月21日(金)・22日(土)に「芝公園梅まつり」が開催。
野点茶会や琴の演奏等が楽しめます。