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白瀬矗「南極探検」より
日本陸軍の軍人で、最終階級は陸軍輜重(しちょう)兵中尉。日本で初めて南極を探検した「日本南極探検隊」を結成し、自ら隊長として南極を目指す。1912年、南極圏における地質、科学その他の学術調査を行い、帰国。日本の極地観測の礎を築いた。
白瀬矗は、1861年、秋田県にかほ市金浦(このうら)にある浄蓮寺の長男として生まれました。幼少時は鎌で狼を退治したり、素潜りで船の底を潜り抜けようとして死にかけたりと、腕白で有名な少年でした。厳しい自然環境に囲まれ、矗は困難に打ち勝つ強靭な精神力を養っていきました。
11歳のとき、医者で蘭学者の佐々木節斎が教える寺子屋で北極探検の話を聞き、探検家を志すようになります。
1879年、18歳になった矗は、探検家となるべく、寺を継がず陸軍に入隊します。1887年には妻・やすと結婚。やすは内助の功で矗の生涯を支えました。軍の演習で出会った児玉源太郎将軍の助言を受け、矗は極寒の千島列島の探検事業に隊員として参加。しかしこの探検は、ずさんな計画のため多くの犠牲者を出してしまい、矗は丸2年を千島で過ごした後に救出されました。
1909年、アメリカのピアリーが北極点踏破に成功したことを知り大きなショックを受けた矗は、目標を南極に変更しました。帝国議会に支援金の請願を提出したものの叶わなかったため、1910年「南極探検発表演説会」を開催。大隈重信をはじめとする名士の演説に超満員の聴衆は拍手喝采し、多額の寄付が集まりました。また隊員希望者も相次ぎ、計画は順調に滑り出しました。しかし、肝心の船の入手が難渋し、出発は予定より1年以上遅れてしまいます。
1910年11月、芝浦にて盛大な壮行会が行われ、探検隊員27名を乗せた「開南丸」が出港。途中暴風雨に見舞われながらも、翌年2月、ニュージーランドのウェリントンに入港しました。しかしこの先の航路はさらに厳しく、氷塊に行く手を阻まれてシドニーに引き返し、春を待つために約半年間の停泊を余儀なくされました。
11月、開南丸は南極に向けて出港。そして1912年1月、ついに南極のホエールズ湾に接岸します。矗ら5名の陸上突進隊は、激しいブリザードの中を9日にわたり犬ぞりで南進し、体力の限界まできたところで整列して日章旗をたて、その一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。矗が50歳の時でした。一方、沿岸探検隊は、 周辺で学術調査を行いました。調査は氷の性質、海底の地質、ペンギンの特徴等多岐にわたり、その後の極地研究に役立つ貴重なものとなりました。
2月、ホエールズ湾を出港し帰途についた開南丸は、6月20日、出発地である芝浦に姿を見せました。航海を無事に終えた白瀬探検隊を5万人もの市民が迎え、東京は歓喜に沸き立ちました。
1年7ヶ月の長旅を終えた矗は、その後南極探検の映像等を携え講演をして全国を回りました。探検にかかった費用を募金だけでは賄いきれず、莫大な借金を背負うことになってしまったためでした。そのほか、書籍の執筆や「日本極地研究会」の設立等、極地探検の啓蒙を続けます。
85歳のとき、矗は間借り先の愛知県で静かに息を引き取りました。辞世の歌は「我れ無くも 必らず捜せ 南極の 地中の宝 世にいだすまで」。生涯を南極探検にかけた矗の名前は、南極の地名「白瀬氷河」「白瀬海岸」等に残されています。
白瀬隊の栄誉を称え、1936年に建立されました。表面に開南丸のレリーフと隊員の名前が刻まれ、両脇にはペンギン像が据えられています。
港区海岸3-14-34(埠頭公園内)
JR「田町駅」14分
参考:「日本南極探検隊長 白瀬矗」(成山堂書店) 協力・写真提供:にかほ市教育委員会 白瀬南極探検隊記念館