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重箱堀の石積の一部は建設当時から残されているもの。時々、水鳥が遊ぶ姿も見られます。
芝浦は、再開発や埋め立てによって時代とともに姿を大きく変えてきた街です。今回は重箱堀を起点に歴史をひもといてみましょう。重箱堀はMINATOシティハーフマラソン2019のマラソンコース10kmを越えた付近に位置しています。
芝浦1丁目交差点の脇にある「重箱堀」は、大正2年に作られた石積護岸。四角い形をしていることから重箱堀と呼ばれるようになったと考えられています。明治時代にさかのぼると、重箱堀はまだ海の中で、当時はこのあたりに都内で初めての海水浴場がありました。開設したのは鐘ヶ江清朝(かねがえせいちょう)という蘭方医。というのも、当時の海水浴はレジャーではなく、病気療養や健康増進を目的としたものだったのです。江戸後期から明治にかけての芝浦は、東京湾越しに房総半島を眺める景勝地として行楽客でにぎわい、海辺には料亭や旅館がたち並んでいました。明治後期には芝浦の海に浮かぶホテルが登場します。輸送船を改造して作られた「ロセッタホテル」です。船に泊まれるという珍しさもあって流行しましたが、数年で閉鎖し、その後、第1次世界大戦中に船は姿を消したそうです。
大正3年頃、芝浦の海で海水浴を楽しんでいる様子。(港区立郷土歴史館所蔵、芝浦水泳所絵葉書 長谷川文三郎氏提供)
イギリス製の大型汽船ロセッタ丸は、輸送船や病院船として活躍したのち、海上のホテルに。写真は明治末頃に撮影。(港区立郷土歴史館所蔵、最新東京名所百景より)
重箱堀から田町駅方面へ少し歩いたところには、江戸時代は海岸沿いにあったという「御穂鹿嶋(みほかしま)神社」があります。もともとは御穂神社と鹿嶋神社という別々の神社でしたが、平成16年に合併して御穂鹿嶋神社と改称しました。また、江戸時代、この神社近くの海辺に「雑魚場(ざこば)」と呼ばれる魚市場がありました。雑魚場ではクロダイ、カレイ、ウナギ等、東京湾で獲れた多種多様な魚介類が扱われ、なかでも代表的なのが「芝」の名を冠するシバエビでした。いわゆる江戸前の魚が毎日売り買いされていた場所で、落語「芝浜」の舞台にもなっています。やがて漁獲量の減少や埋め立てにより漁業がおこなわれなくなってからも、江戸時代からある最後の海岸線として残っていましたが、昭和45年に埋め立てられ、港区立本芝公園となりました。
雑魚場跡地につくられた本芝公園。船や貝等、海をモチーフとした遊具が並んでいます。(港区提供)
昭和42年頃の雑魚場の様子。左側には海岸線、右側の海上の堤防には、線路が走っています。(港区提供)
現在は近代的なオフィス街であり運河が走る港湾都市というイメージの芝浦ですが、かつては漁業が盛んだったり、海水浴や潮干狩りが楽しまれたりと、一味違う表情を見せていたのですね。今もなお再開発等で変わり続けている芝浦だからこそ、歴史を感じながら、今しか見られない街の景色を眺めに訪れてみるのもおもしろそうです。
合併される前の御穂神社と鹿嶋神社を描いた江戸時代の木版画。手前が御穂神社で、海岸沿いに建っていることがわかります。どちらの神社も古くから住民に親しまれてきました。(国立国会図書館所蔵)
現在の御穂鹿嶋神社。社殿はもともと御穂神社があった位置に建っています。鳥居をくぐった先にある狛犬は江戸時代に奉納されたもの。
協力/港区立エコプラザ、港区立エコプラザボランティア 入江 誠
参考/『みなと歴史さんぽ 街歩き全コース』(港区立エコプラザ)