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仕事の休憩中や散歩中にのんびり一回りするのにちょうどよい、約1,600坪の回遊式庭園。
定期的に、子どもたちがロープ遊びなどを楽しめるイベントが開催されています。
今号から、心が癒される憩いの場をピックアップ。第1回は高橋是清翁記念公園。明治~昭和初期の日本を政財面から支えた高橋是清の生涯とともにご紹介します。
青山一丁目駅と赤坂見附駅の中ほど、青山通り沿いにある高橋是清翁記念公園。その名が示す通り、かつて政財界で活躍した高橋是清の邸宅跡につくられた公園です。手前はすべり台や砂場がある遊具スペース、奥は池や石灯籠が配された庭園スペースとなっています。緑豊かな庭園スペースに足を踏み入れると、木々のゆれる音や水のせせらぎが聞こえ、都会の喧騒から一歩遠ざかってリラックスした気分に。築山には是清の銅像が置かれています。記念公園が開園した1941年に初代の銅像が建てられましたが戦時中に失われ、現在あるのは1955年に建てられたもの。初代は洋装、現在は和装の姿ですが、どちらも制作者は彫刻家の齋藤素巌です。
港区の芝に生まれ育った是清の人生は波乱に満ちたものでした。青年時代に勉学のため渡米するも奴隷の扱いを受け、その間に日本では江戸幕府が倒れました。さらに帰国後もペルーの銀山開発に失敗して破産するなど、多くの困難にぶつかりました。それでも是清は何度も立ち上がります。やがて経済界で頭角を現し、日本銀行総裁、大蔵大臣、そして総理大臣を務めるまでに。とくに日露戦争の戦費を調達したり、昭和2年の金融恐慌を収めたりといった経済的手腕は国内外で高く評価されました。また、その丸みを帯びた体格と陽気な人柄から「ダルマさん」の愛称で国民から広く親しまれました。
是清が晩年の34年間を過ごしたのが、現在、記念公園がある場所です。遊具スペース付近に屋敷があり、大きなガラス戸越しに奥の庭園を眺められるつくりになっていたようです。1936年、自宅にいた是清は、二・二六事件の襲撃を受け、81歳でこの世を去りました。邸宅跡地は遺族によって当時の東京市に寄贈され、記念公園として開園。以来、地域の人々の安らぎスポットとなりました。是清は生前、屋敷や庭を子どもたちの遊び場として開放したいと言っていたそうですから、記念公園で子どもたちが遊ぶ様子を喜んでいるのではないでしょうか。
ひとつひとつ表情が違うユニークな石像。園内の石像や石燈籠についての資料は少なく、いつからここに置かれているのかなど詳しいことはわかっていません。
園内には多くの石燈籠が置かれています。「これを是清が眺めていたのかも…」と想像しながらの散策も楽しそうですね。
かわいらしいヤモリを発見!?
子どもたちがのびのび遊べる遊具スペース。
スダジイの切り株から新しく生えてきた芽を育てているそうです。大きく育ってほしいですね!
園内にある公園管理事務所。港区赤坂地区14ヶ所の公園案内や、公園イベント情報などの発信も。
庭園スペースの池の流れ。是清が暮らしていた頃も、庭園には池があったそうです。ちなみに是清邸の主屋部分は、小金井市にある江戸東京たてもの園に移築されています。
住所:港区赤坂7-3-39
・東京メトロ・都営地下鉄「青山一丁目」駅徒歩6分
・東京メトロ「赤坂見附」駅徒歩12分
【HP】https://atago-jinja.com/
高橋是清翁記念公園内にある高橋是清の銅像。
1927年、第1次世界大戦後の不況と、関東大震災後に発行した震災手形の不良債権化があいまって銀行経営を圧迫。全国各地で預金者が銀行に殺到する取り付け騒ぎが起こりました。この昭和金融恐慌を収めたのが当時74歳の高橋是清です。是清は全国の銀行に3日間の休業と3週間のモラトリアム(支払猶予令)を指示。休業の間に片面白紙の200円札を大量に刷らせました。十分な紙幣が用意されていると知った預金者たちは安心し、取り付け騒ぎはまたたく間に沈静化しました。是清の非常措置により、日本経済はパニックを脱したのです。
現在
1932年頃
高橋是清翁記念公園から4分ほど歩いたところに、羊羹で有名な和菓子屋「とらや」があります。とらやは室町時代後期に京都で創業し、古くから御所の御用をつとめてきました。明治期の東京遷都にともない東京に進出、現在は全国に展開しています。赤坂店には売場のほか、喫茶やギャラリーも併設。
住所:港区赤坂4-9-22
営業時間:
〈物販〉 9:00~18:00(土日祝は9:30~)
〈喫茶〉 11:00~18:00(土日祝は~17:30)