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ふれあいコラム

今、話題の人物をクローズアップ!
パーソナリティ 齋藤 安弘(さいとう やすひろ)さん

パーソナリティ

齋藤 安弘 さん

深夜放送の名調子で語る懐かしい映画をご一緒に

ラジオの深夜番組『オールナイトニッポン』初代パーソナリティとして活躍されたアンコーさんこと齋藤安弘さん。7月25日には赤坂区民センター『懐かしの映画会』で映画にまつわる楽しいお話を語ってくださいます。『オールナイトニッポン』や、映画にまつわる思い出を伺いました。以下、アンコーさんの声を想像してお楽しみください。

アンコーさんといえば「君が踊り ぼくが歌うとき 新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を。青空の代わりに夢を」で始まる『オールナイトニッポン』。懐かしいです。

『オールナイトニッポン』が始まったのは1967年10月のことでした。ラジオの深夜放送は、土居まさるさんが始めた『真夜中のリクエストコーナー』を先がけとして、TBSが『パックインミュージック』を始めていて、ニッポン放送もやらなければ、と思ったんでしょう。当時の私は入社3年目でしたが、ベテランの糸居五郎さんが月曜、私が火曜担当で、週6人中最年少のパーソナリティとなりました。
深夜4時間「好きにやってみろ」と言われましたが、4時間分の原稿を書くのは無理。ですから最初から放送作家も原稿もなし。マイクを聴取者に見立て、自分の言葉で語って、ありのままの姿をさらけ出したわけです。最初はリクエストハガキもきませんから、自分で選曲して自分でレコードを回し、曲名を言うと同時に音楽を流すアメリカンスタイルのDJでやりました。

それが大人気となりましたね。

次第にハガキが増えて、最終的には1週間で1万5千通ぐらい届くようになりました。番組が早朝5時に終わると、報道部に行ってアルバイトにインスタントラーメンを作ってもらい、それから宿直室で仮眠しますが、有楽町周辺は騒音がすごくてね。11時ぐらいには起きて翌週の準備をして、夕方帰宅。翌10時に出社して別の番組をやっていました。
大変でしたが、時代が良かったですね。深夜放送は社会的にもブームになり、サンケイホールや日比谷野外音楽堂に各局のパーソナリティが全員集合して、深夜放送まつりをやったこともありました。ライバルも気持ちの上では皆がつながっていた、面白い時代でしたね。

そもそもラジオ局のアナウンサーになったきっかけは?

私が生まれたのは、太平洋戦争が始まる前年の1940年。ビートルズのジョン・レノンと同い年、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーは3歳下という世代です。中学ではラジオ部、高校でも放送劇部に所属して、ラジオドラマと放送の両方をやっていました。こうしたことがアナウンサーになったきっかけ、かもしれないですね。
でもクラブ活動を一生懸命やりすぎて、母からは「絶対大学には一年で受からないよ」と言われ、その通りになりました(笑)。結局、1年浪人して中央大学法学部に入学。真っ先に行ったのは放送研究会でした。放送研究会の先輩には、NHKや民放のアナウンサーがたくさんいたので、就職は、自分もアナウンサーを目指しました。一応、法学部ですから司法試験も考えてはみましたが、私みたいなのが行くと日本の「ジュリスプルーデンス(法理学・法の賢慮)」が心配で…法曹は、ほうそう違いということで(笑)。
それで、最初に受けたのはフジテレビ。フジテレビはカメラテストで、ものすごくあがりました。もう、胸ドキドキ。さらに翌日のCM試験は、キャッチコピーを全部暗記して挑みましたが、「どうぞ」と呼ばれてドアを開けたら会議室に審査員がダーッと並んでいて…もうダメでした(笑)。
その次の文化放送も最後で落ちました。その時、一緒に受験したのが『セイ!ヤング』の土居まさると、後にFM放送局「FM NACK5」の常務になった田中秋夫、そしてスポーツ中継の月岡逸弥。この3人が受かって、私は次点で落選です。

次点は悔しかったですね。

いやいや当然ですよ(笑)。それからもいろいろな局を受験しましたが、一番ハードだったのはTBSですね。この筆記試験がすごかった。B4版わら半紙13枚の問題を1時間半で答えるんです。さらに専門科目のテストがあって、私は音楽を選びましたが、音楽だけでまるまる6枚の問題を30分で解く。漢字にふりがなをつけ意味を書けという問題では「錦心流」とあって、わからないからカンで「琵琶の流派のひとつ」と書きましたが、帰宅して父親に聞いたら「それはお前、薩摩琵琶の流派で…」と言われて、ああ良かった…って感じですね。ほかにもミュージカルの作詞・作曲家と作品名をつなげといった問題ばかりで大変でしたけど、面白かったですね。でもやっぱり、最後の最後で落ちました(笑)。 このTBSには『大沢悠里のゆうゆうワイド』の大沢悠里が入社しましたが、彼とも会えば実に親しい口を利く間柄。アナウンサー試験を受けて最後のほうまで残っている人間はだいたい顔ぶれが決まっちゃうので、仲良くなるんですね。
それでニッポン放送、と言いたいところですがその前にもうひとつ、山形放送にも決まっていたんですよ。OKをいただいて「山形まで来てください」と言われましたが、交通費は自腹と聞いて「じゃあ、やめた」(笑)。
こうした試験に比べて、ニッポン放送の筆記試験はやさしかったですねぇ。それで昭和39年、東京オリンピックの年にニッポン放送に入社しました。倍率は175倍くらいで、合格した男性は私と宮田統樹くんの二人でした。

その後、『オールナイトニッポン』のパーソナリティに選ばれたわけですね。

私が選ばれた理由はわかりませんが、当時は『セイ!ヤング』の落合恵子さん、少し後輩の小島一慶さんとか、そういう若い人たちもDJをやるようになって、皆それぞれにファンが増えていった時代でした。
結局、足掛け7年『オールナイトニッポン』をやって、最後は、ニッポン放送の大きなスタジオで公開放送をしました。そこには土居まさるくん、水沢アキさん、野沢那智さんたちも来てくれて、全国の聴取者が4時間の生放送につきあってくれました。やっぱりいい時代でしたね。

『懐かしの映画会』も好評です。映画もお好きなんですね。

アナウンサー時代、試写会で映画の解説をやったこともありますし、今も報知新聞社主催の報知映画賞選考委員をやっていて、年間200本以上の映画を見ています。
そもそも映画に親しむようになったのは、父の影響も大きいですね。子どもの頃からよく父の会社帰りに、横浜の映画館に連れて行ってもらいました。グレゴリー・ペックが出ていた『子鹿物語』や、『しいのみ学園』とか今でも覚えています。
高校時代も映画はよく見ていました。たまたま隣の席の親友が、毎日のようにお昼を食べず、その昼食代を入場料にして映画を見に行って、授業中、ノートに見た映画の題名と監督、主役、感想とかを書いているんですね。彼に誘われ、学校帰りに映画を見たり、夏休みの補習をサボって川崎で『地上より永遠に』のデボラ・カーとバート・ランカスターの水際のラブシーンを見たり。『慕情』は、真冬の朝一、野毛にあった横浜文化劇場という映画館で、『老人と海』は東横線の白楽という駅の白鳥座。そういった具合に、どこで何を見たかまで覚えているものですね。やはり映画は、こうした大きいスクリーンで見ていただきたいというのが、私のモットーです。
ですので『懐かしの映画会』ではそうして見てきた中から、皆さんがご覧になりたい作品を想像して紹介しています。第一回は『ニューシネマパラダイス』、第二回は川嶋雄三監督、フランキー堺主演の『幕末太陽傳』。会場では『幕末太陽傳』には結末が2つあったとか、落語がモチーフといった話題をチョコっと。見終わったあとまた皆さんと余韻を楽しめる構成です。
次回は『ローマの休日』。オードリー・ヘプバーンが素敵でしたね。どんなお話をしましょうか。ご覧になった方も、初めての方も一緒に楽しめる『懐かしの映画会』にできたらと思っています。ぜひ、いらしてください。

プロフィール

齋藤 安弘(さいとう やすひろ)さん

齋藤 安弘(さいとうやすひろ)
1940年神奈川県生まれ。1964年ニッポン放送入社。67年スタートの深夜放送『オールナイトニッポン』初代パーソナリティとして人気に。元ニッポン放送社長の亀渕昭信氏と組みカメ&アンコーとして親しまれた。その後も『朝はおまかせアンコーです!』『オールナイトニッポンエバーグリーン』等を担当した。