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ふれあいコラム

今、話題の人物をクローズアップ!
歌舞伎役者 市村 萬次郎(いちむら まんじろう)さん

歌舞伎役者

市村 萬次郎 さん

日本人の鑑賞も歓迎! 歌舞伎や日本文化を知るきっかけに

10月23日、赤坂区民センターで開催されるKissポート講座『KABUKI for Everyone・みんなの歌舞伎~観る、識る、体験する~』は、品の良い女形として著名な歌舞伎役者の市村萬次郎さんと長男の竹松さん、次男の光さんが実演を交えながら、日本語と英語の両方で歌舞伎の魅力を教えてくれます。その活動や思いを伺いました。

早くから歌舞伎を紹介する英語解説付きホームページを作られたり「外国人の為の歌舞伎教室」を開催されていますね。

萬次郎:もともと理科系が好きだったんですね。それで、歌舞伎好きで父の楽屋によく来られていた岡山の天文台の台長さんと親しくさせていただいて。地方巡業で岡山あたりに行くと天文台に寄って、芝居と星の話をしていたのですが、そこに早くからインターネット回線が通っていました。それでネットを知っていたので、1994年に英語で歌舞伎を解説したホームページを作りました。日本にいる外国の方を対象にした「外国人の為の歌舞伎教室」は92年から。自分たちで企画した海外公演は96年から始めて、さまざまな国に行きました。
これは、自分が歌舞伎をやっている理由のひとつなんです。理系の趣味と歌舞伎が結びつき、日本文化の紹介や入り口になります。歌舞伎を見て、日本の衣装や音楽、建物といったものに少しでも興味を持ってもらえたら。そうした思いがありました。

海外での舞台の反響は?

萬次郎:台湾は日本の古典に詳しい方が多くて、忠臣蔵の七段目等人気でしたね。共産圏は演劇や生の舞台に親しい文化があるので、日本より深い質問や哲学的な内容も聞かれました。

歌舞伎をまったく知らない外国の方に説明するのは大変そうですが。

萬次郎:言葉を単純に翻訳してもニュアンスや文化が違いますからね。言葉で説明するより、見ていただくことです。お芝居は人間の人生を描きますから。まず通訳の方に簡単に説明して、言葉は違っても良いからわかりやすく伝えてもらって、あとは歌舞伎の特徴や形を見せます。男女の歩き方の違いや、セリフの抑揚を実演すると、よくわかってもらえますね。

歌舞伎を題材にしたさまざまな舞台にも出演されていますね。

萬次郎:最近は、市川海老蔵さんと中村獅童さんの、宮藤官九郎脚本・三池崇史演出の六本木歌舞伎『地球投五郎宇宙荒事』や、「劇団☆新感線」の舞台を歌舞伎にした『阿弖流為(アテルイ)』に出ました。そうした舞台を古典に入るきっかけにしていただければうれしく思います。
歌舞伎を知らない方によく話すのは「わからなかったり、つまらなかったと思っても、歌舞伎全部を嫌いにならないでください」ということです。映画がつまらなくても、映画そのものは嫌いにならないでしょう?お芝居も同じで、その日の舞台の役者がヘタだったということで、決して歌舞伎全部がダメと思わず、もっと気軽にまた違う演目を見ていただければ。この講座を歌舞伎を知るきっかけのひとつにしていただければ幸いです。

講座は、日本文化を海外に紹介するときの基礎知識や英語の勉強にもなりそうですね。
ところで本日は、ご長男の竹松さんと奥様の潔子さんも来てくださっています。竹松さんは、跡を継ぐのは当たり前という感覚だったのですか?

竹松:父は僕の自由を尊重してくれて、必ずしも役者になる必要はない、と言ってくれていました。僕の場合、中学以降は学業に専念していたので、舞台に対しては子役時代の心地良い印象が強かったですね。素直に演じていると、それを見たお客さまが喜んでくださる。僕も嬉しかったし、舞台に立つ快感もありました。 父は言いませんでしたが、周囲からは長男だからと言われることも多くて、跡を継ぐ意識が自然と僕の中に生まれていたのかもしれません。

萬次郎:子役は、楽屋でいちばん偉い人なんですよ。大人は代わりがいますが、子どもの代わりはいませんから、環境が実に良いんです。いつもより美味しいものが食べられたり、おもちゃをもらえたり、機嫌が悪くならないように、みんなが気をつかってくれます。中学・高校になると厳しくなるんですけどね。

竹松:それに、人間国宝だった祖父(17代目市村羽左衛門)も僕のことを非常に可愛がってくれていました。祖父がよく話していたのが「自分の言葉で歌舞伎という文化を世界に伝えたい」ということです。でも、祖父は日本語しかできなかったので、自分の言葉で伝えることができなかったんですね。僕は小学校からインターナショナルスクールに通っていたので、英語ができます。歌舞伎の家に生まれたこと自体が滅多にないことですし、そうした経歴を生かすチャンスなので、今はしっかり修行していこうと思っています。

海外公演や「外国人の為の歌舞伎教室」等では、奥様の潔子さんも尽力されていますね。

潔子:もともと私は、京劇の勉強をするため台湾に留学していました。日本に帰国したとき、台湾からきた留学生に歌舞伎を見せても、英語の解説しかないのでわかってもらえないんです。それで主人に話して、中国語で解説した「外国人の為の歌舞伎教室」を始めたんです。
その後、香港の夜景を見た主人が「ここで歌舞伎ができたらいいな」と言いだして。それで、海外で自分たちが主催する歌舞伎の舞台をスタートさせました。翌年は、私が留学していた台湾で。この香港と台湾は、60人規模の公演でしたが、国際交流基金から頼まれた2001年のイタリア、ブルガリア、ルーマニア、ドイツは、予算がほとんどなかったんです。それで最少人数で行って、あとは現地スタッフと一緒に作り上げる方式でやっていきました。

萬次郎:役者は僕とお弟子さんふたり。あと、衣装と床山と大道具と照明で、彼女はプロデュース。それで全部です。材料も持っていけないので、舞台で必要なものは現地で調達するしかありません。お芝居以外のいらないものを全部、そぎ落としていったんですね。すると、歌舞伎とはなんだろうという原点に立ち返ります。そうした経験から、現地の人と一緒に作り上げる舞台が生まれてきたんですね。

潔子:この人はきれいな姿で舞台に上がるわけですが、私はジャージ姿で不眠不休で金槌叩いて舞台を作るんですよ。今は息子たちがしゃべれるので交渉や解説をしてくれますが、その当時はまだ使えなかったので(笑)、現地の通訳さんにその場でその国の言い方を聞いて、歌舞伎をまったく知らない人たちと戦って作ったんです。
たとえばブルガリアではちょうど国際婦人年で、立ち回りで男と女の殺し合いのシーンに、通訳の女性が「男が女を殺すなんてとんでもない」と怒りだして「生き返って踊るから大丈夫」ってなだめたり。アラブでは、舞台の上で女形のお化粧の解説をするために着物を脱ぐと「脱いでいいのか!」と言うので「やっているのは男だから」(笑)。「あんなにきれいなダンナで嬉しいだろう」と言われてもねぇ。大変でしたけど、面白かったですね。

息子さんをインターナショナルスクールに通わせたのはどうしてですか?

潔子:元麻布にある西町インターナショナルスクールに通っていたのですが、彼が自分で選びました。最初はまったく英語ができませんでしたが、9歳の頃、一人で3週間アメリカに行って、小学校高学年ぐらいには、現地の大人と交渉できるくらいになりました。次男は、インターナショナルスクールからチャイニーズスクールに行き、今は慶應大学の学生で、こちらは中国語担当です。でも、とくに教育方針とかではなくて、行きたいところに行き、やりたいことをやって、あとは当人がどう考えて生きていくか、ということですね。今ではすっかり戦力です。

竹松:たまたま行った学校がインターナショナルスクールだったわけですが、そこで大変だったのは、言葉の違いだけじゃなく、徹底して自分の考えを説明しないといけない授業ばかりだったことです。歴史の出来事は、当時の人の決断やその重要性を、生徒一人一人が自分の言葉で説明しないといけないし、経済の試験は「とある会社の経営に対する最善策を書きなさい」といった具合。鍛えられますよね。
友達との関係も、お互いの違いを認め、自分のアイデンティティーを大切にすることが重要です。なので日本的な感覚からすると、主張が強かったり衝突することが多くて、考え方や顔つきがまるでアメリカ人みたいになっていた時期もありました。大学は早稲田だったので、日本と海外の両方を体験できたのは、良かったかもしれないです。

潔子:日本と海外の感覚の違いは、私も痛感しましたね。10代後半から7年ぐらい台湾で一人暮らしだったので、結婚は国際結婚みたいな感じでした。そういう意味では、港区は大使館も多いし、海外の人もたくさん住んでいるし、感覚的に助かりました。

港区の住み心地はいかがですか?

萬次郎:もともとうちの実家が青山で、結婚して高輪に引っ越しして、そのあとずっと高輪なんですよ。

潔子:落ち着いてますね。静かだし緑が多くて、小さな公園が点在してますし。泉岳寺で義士祭があったり、夏は公園で盆踊りをしていたり、清正公のお祭りもあるし、東京なのに年中行事がたくさんあって、良い環境です。そうした年中行事は昭和の頃と変わらず、日本の良さを感じ取れる雰囲気があります。
結婚の時に主人の母からは「節分やお盆の迎え火、お正月のお雑煮やおせちといった季節感を忘れないで、子どもたちにやってあげてね」と言われました。そうしたことをすごく大事にしているお家でしたね。お芝居には江戸時代の風物がでてきますから、そうしたことを肌で知っていることも大切なんでしょうね。

ご家族の皆さんそれぞれが、互いの経験や得意技をプラスに活かしあっているんですね。

萬次郎:生きてきた中で、人生に無駄はないんです。自分の好きなこと、やりたいことをしっかりやっていたなら、道が違ったとしても、無駄にならずどこかにワープして繋がるんですよね。たとえば、理科系の知識と歌舞伎は関係ありませんが、インターネットやホームページ作成に繋がりました。息子は、インターナショナルスクールと歌舞伎。一生懸命やっているとあとで繋がるんです。人との出会いも同じです。とくにお芝居は、人生そのものを扱いますから、自身の肥やしになります。
僕にとっては、明治の人とたくさん会ったことも大きかったですね。鼓を稽古してもらった女流鳴物師の望月初子師匠や竹本鏡太夫さん、そういう明治生まれの方たちの考え方は決して古くなく、柔軟だし、いつも先を見ているんですよ。
父の弟子で、立ち回りで人間国宝になった坂東八重之助さんは「あなたがやりたいようにやんなさい。昔にこだわる必要はない。新しい技術はどんどん取り入れなさい。ただし、その技術を見せるために芝居をしているわけではない。何のために芝居をしているのか忘れないで」と言っていました。古典は誰かが作ったもので、それをそのまま残すことにたいして意味はないんですよ。ビデオのない時代の五代目菊五郎が何をやっていたかということよりも、何を考え、今生きていたらどう考えるか、そちらを知る方が、絶対に面白いはずです。もちろん、過去の蓄積はちゃんと見なければいけませんが、これから先、何をやっていくかがより重要だと思いますね。

気になるのが、萬次郎さんと潔子さん、おふたりの出会いです。歌舞伎と京劇で、接点はどこにあったのでしょうか?

萬次郎:僕の先生です(笑)。

潔子:教え子です(笑)。

萬次郎:2年に1回ほど、歌舞伎界で俳優祭というのをやっています。ある時、その演目で市川團十郎さんが孫悟空をやって、僕と中村芝雀さんが女の妖怪をやったことがあるんです。幕開けは歌舞伎の『紅葉狩』のパロディで、戦うシーンは京劇風にやりたいということで、たまたま日本に戻っていた彼女に、京劇の立ち回りを教えてもらったんですよ。

潔子:私は、京劇の中でも立ち回りが専門でしたので、歌舞伎では、市川猿之助さんの『ヤマトタケル』の初演の時にお手伝いしました。それから坂東玉三郎さんの『楊貴妃』とか。ヤマトタケルの再演で、たまたま日本に戻っていたらこういうことになって…(笑)。

今後も海外発信を続けていかれますか?

萬次郎:そうですね。これからもやっていきたいと思います。それにたぶん、息子たちのような存在は、これから必要な人材だと思います。
僕はいつも夢や希望じゃなくて「方向が大事」と言ってきました。人間は死ぬまでその方向に歩いていくわけですから。そのためには、自分が今どこにいるのか、どんな環境に立っているか見えないと、歩いていく方向が決められません。ですから、どんな分野でも良いですが、なるべく幅広くものを見て、自分の位置と持っているものを使って、どちらに向かって歩いていくか。しっかり、自分で考えて、と。

潔子:そういう話を聞いていると、そんなことより現場が大事って、いっつも思うんですけどね(笑)。

萬次郎:この人(潔子さん)は、そういう人ですから(笑)。夢というか、なにかを実現していくのに必要なのは、方向と現場でしょう。それは絶対、両輪なんですよ。

楽しくて深いお話を、ありがとうございました!

プロフィール

市村 萬次郎(いちむら まんじろう)さん

市村 萬次郎(いちむらまんじろう)
二代目 市村萬次郎。
1949年東京生まれ。父は人間国宝の17代目市村羽左衛門。兄は8代目坂東彦三郎、弟は4代目河原崎権十郎、長男は6代目市村竹松、次男は初代市村光という歌舞伎一家。妻は京劇女優の坂間潔子。『ザ・マジックアワー』(三谷幸喜監督作品)等の映画やテレビドラマの出演も多数。