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港区探訪

地図で見る港区いまむかし

第一回 赤坂・六本木

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▲上の写真は港区のどこかで撮影しています。さて、どこでしょう?答えはこちらをクリック

「江戸切絵図」は、江戸の町をいくつかに区分けして作成された詳細な地図。江戸末期に刊行され、当時の様子を今に伝える貴重な史料です。
150年前の東京はどんな街だったのでしょうか。古地図を片手に、当時の港区を訪ねてみましょう。

名所になった、かつての大名屋敷

今では飲食店や商業施設が立ち並び、観光名所も多い赤坂・六本木エリアですが、切絵図が刊行された幕末期は大名屋敷が軒を連ねる住宅地でした。江戸城の赤坂御門を擁する都市の中枢で、歴史を動かした大人物の住まいもありました。

「今井谷市兵衛町 赤坂全圖」

「今井谷市兵衛町 赤坂全圖」

江戸切絵図 尾張屋(金鱗堂)板
元治2(1865)年刊行

[1]溜池:江戸の南部で使う水を溜めておくために作った人工池。「溜池山王」の地名の由来となっています。

[2]定火消御役屋敷:幕府直属の消防組織である定火消(じょうびけし)が詰める、当時の消防署のような役割の場所です。

[3]氷川大明神:もとは現在の赤坂一丁目にありましたが、享保15(1730)年、8代将軍吉宗によって現在の赤坂六丁目に移されました。

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[昔] 松平安藝守(あきのかみ)中屋敷
[今] 赤坂サカス(TBSテレビ)

地図の中央やや左(い)に、「松平安藝守」の文字が見えます。ここには、安藝広島藩・浅野家の中屋敷(上屋敷に住む大名の近親者が住まう場所)がありました。広島藩といえば、忠臣蔵の赤穂浅野家の本家筋にあたる大藩です。現在は、TBSテレビ本社やライブハウス、劇場が集まる赤坂サカスとなっています。季節ごとにイベントが行われ、常ににぎわいを見せているスポットです。

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[昔] 松平大和守(やまとのかみ)中屋敷
[今] アークヒルズ

地図の右上(ろ)には、「松平大和守」と書いてあります。松平大和守は、武蔵国川越藩の藩主。切絵図が刊行された1865年には、第七代の松平直克がつとめていました。一帯は現在、傾斜地を巧みに使った複合商業施設、アークヒルズに。中屋敷は、現在サントリーホールがあるあたりに建っていました。左ななめ上の「戸田采女正」とある場所も、同じ中屋敷の敷地だったようです。また、右ななめ上にも「松平大和守 上屋敷」とありますが、こちらにはホテルオークラが建っています。

[昔] 松平大膳大夫(だいぜんだいぶ)中屋敷
[今] 東京ミッドタウン

地図下方、ひときわ広い区画(は)となっているのは、長州藩毛利家・松平大膳大夫の中屋敷。もとは下屋敷(農民に野菜を作らせたり、武芸鍛錬を行ったりする場所)で、檜屋敷とも呼ばれていました。幕末期の当主の毛利敬親は、薩摩藩とともに討幕運動を進めた人物として知られています。明治に入ってこの地は陸軍歩兵第一連隊の用地となり、1960年には防衛庁に。そして現在では、世界屈指のホテルや美術館もある東京ミッドタウンとなっており、たくさんの人が訪れています。

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解明!地名のひみつ
「赤坂見附」

「見附」とは、江戸城を囲む堀に面した城門(御門)のこと。敵の侵入を発見するための施設であることから「見附」と呼ばれ、ふたつの門を直角に配置した「枡形門」の形式で作られていました。

江戸城の周囲にはかつて36もの見附があり、赤坂のほか市谷見附、四谷見附等にその名を残しています。赤坂御門は現存しませんが、国道246号線沿いにその跡を見ることができます。

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写真の答え!
アークヒルズ(赤坂)

サントリーホールエントランス前にあるモニュメント 「響」。「響」という文字がデザインされています。

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参考:「嘉永・慶応 江戸切絵図」「切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩」(人文社)「江戸城三十六見附を歩く」(わらび書房)「面白いほどよくわかる江戸時代」」(日本文芸社)