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▲上の写真は港区のどこかで撮影しています。さて、どこでしょう?答えはこちらをクリック!
「江戸切絵図」は、江戸の町をいくつかに区分けして作成された詳細な地図。江戸末期に刊行され、当時の様子を今に伝える貴重な史料です。
150年前の東京はどんな町だったのでしょうか。古地図を片手に、当時の港区を訪ねてみましょう。
青山エリアは、かつては信州善光寺の分院である善光寺の門前町でした。大名家の下屋敷を中心として広がる一帯には、現在の青山通りである大山道も通っています。現代ではファッションやアートの最先端の街ですが、当時の様子はどうだったのでしょうか。
[1]長者ヶ丸:昔この地に富豪が住んでいたという言い伝えがあり、現在も「長者丸通り」という名が残っています。
[2]大山道:現在の国道246号線。当時は、相模国の大山への参詣者が通ることから「大山道」と呼ばれていました。
[3]梅窓院:美濃郡上藩主 青山家の菩提寺。外苑前駅そばに現存しており、竹林とスタイリッシュな建物が印象的です。
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江戸時代、幕府の命で城門や将軍の外出先での警備を務める鉄砲隊「百人組」が組織されました。百人組は全部で四つありましたが、そのうちの一つが青山に置かれ、隊士たちが住んだ善光寺門前の一帯(い)を「百人町」と呼んでいました。江戸中期以降、物価が高騰して暮らしが苦しくなると、下級武士である彼らは傘張りの内職で収入を得るようになりました。組でまとめて材料を仕入れる等、組織的に仕事をこなしたため、一時期は付近に傘の仲買商が集まったと言われています。
地図右下に大きく広がる青山大膳亮(だいぜんのすけ)下屋敷の敷地の南東に、伊達遠江守の上屋敷(ろ)があります。伊達家といえば仙台の伊達正宗公を始祖とする名家ですが、大坂の陣ののち、伊予宇和島10万石が与えられました。切絵図が描かれた時代の当主は、第8代藩主・伊達宗城(むねなり)。宗城は黒船に影響を受けて蒸気船の建造を命じ、日本人のみの手で完成させる等、先見の明がある君主でした。
現在ここに建っているのは国立新美術館。所蔵品を持たず展覧会を中心とした美術館で、展示スペースは14000㎡と国内最大級。美術作品を展示するほか、ワークショップやシンポジウムの開催、美術資料の収集・公開等日本のアートセンターとして重要な役割を果たしています。
「青山」という地名は、青山家(地図中の「青山大膳亮」)という大名に由来します。関東に入国した徳川家康がこの地に鷹狩りに訪れた際、供の青山忠成(ただなり)に「馬で走り回った範囲の土地を与えよう」と持ちかけたところ、忠成は老馬を遠くまで走らせて広大な領地を得たとも言われています。現在、屋敷のあった一帯は都立青山霊園となっており、数多くの著名人が眠っています。
波打つガラスカーテンウォールが特徴的な建築は、“森の中の美術館”をテーマにデザインされたもの。2008年にグッドデザイン賞を受賞しています。
国立新美術館
http://www.nact.jp/
港区六本木7-22-2
TEL 03-5777-8600(ハローダイヤル)
10時~18時(金曜?20時)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:毎週火曜日(祝日は開館し、翌平日休館)
参考:「切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩」「嘉永・慶応 江戸切絵図」(人文社)「江戸切絵図を読む」(東京堂出版)「図説 お江戸の地名の意外な由来」(PHP研究所)「古地図で歩く 江戸・東京 歴史探訪ガイド」(メイツ出版)