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『あ・うん』あとがきより
映画雑誌の編集者を経て、テレビドラマの人気脚本家に。エッセイ、小説にも才能を発揮し、昭和55年には短編連作で直木賞を受賞。代表作にテレビドラマ『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『あ・うん』、エッセイ『父の詫び状』がある。
かごしま近代文学館所蔵
向田邦子は、1929年、東京・世田谷に誕生しました。保険会社の幹部だった父の転勤により、宇都宮、鹿児島、高松と全国を転々としながら幼少期を過ごしますが、13歳の時に一家で東京に戻ります。
女学校を卒業後、邦子は大学(実践女子専門学校)に入学。同時期に父の仙台転勤が決まり、一家は再び引っ越すことに。邦子は通学のため、2歳下の弟とともに麻布市兵衛町(現在の六本木一丁目駅付近)にあった母方の祖父母の家で暮らし始めました。終戦からわずか2年というこの時代、経済的困難から大学生は学費を稼ぐためにアルバイトをするのが一般的で、「アルバイト学生」という言葉が流行。進学率自体が低い中、大学に進学する女性はごくわずかでした。
大学を卒業後、一度は社長秘書として就職した邦子でしたが、2年後に転職を決意します。この時代は結婚した女性が外で仕事をもつことは難しく、「結婚よりも仕事を選ぶと決めたからには、もっと自分に合った仕事をしたい」との気持ちからでした。転職先は、映画雑誌を発行していた雄鶏社(おんどりしゃ)という出版社。幼少期より映画に興味をもち、学生時代に映画館へ足しげく通ったおかげで、多数の応募者の中から抜群の成績で映画記者・編集者として採用されました。ここで築いた人脈が、後の人生に大きく影響することになりました。出版社に勤めるかたわら、ペンネームで雑誌のライター業を始め、さらにテレビドラマの台本を手がけるようになります。そして1960年、31歳で退職し、脚本家として独立を果たしました。
脚本家として歩みはじめた邦子は、このころ家族で住んでいた荻窪の家を出て霞町(現在の西麻布三丁目)で一人暮らしを始めます。些細なことから父と口論になり、翌日に飼い猫の伽俚伽(かりか)だけを連れて家を出ました。さらに6年後には、テレビ局に近い南青山のマンションを購入します。
『寺内貫太郎一家』のヒット等で順風満帆だった45歳の時、乳がんが発覚。3週間の入院生活と手術を経て、邦子は今までの人生を振り返ってみようと、随筆を手がけるようになります。このころスタートしたのが、銀座のPR誌「銀座百点」の連載でした。亡き父との思い出を中心につづったこの作品は、後に『父の詫び状』としてまとめられ、代表作としても知られています。また、料理好きが高じて赤坂に小料理屋「ままや」を開店したのも、このころでした。
1980年に「小説新潮」にて、短編小説『思い出トランプ』の連載がスタート。この年の7月、その中の3編が第83回直木賞を受賞しました。連載中に受賞候補となるのは異例のこと。さらに、連載終了直後に単行本化される等、作家としての活躍はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
しかし、そんな邦子を悲運が襲います。直木賞受賞の翌年、旅行中の飛行機事故で不慮の死をとげたのです。51歳という早すぎる死に、多くの関係者やファンが悲しみにくれました。その後、優れたテレビドラマ脚本に贈られる「向田邦子賞」が制定され、邦子の脚本作品が多数刊行されました。謙虚な性格だった邦子は、偉人として扱われることは不本意かもしれませんが、その功績は高く評価されています。そういう意味では偉人らしくない偉人と言えるのかもしれません。昭和の時代、女性として自分らしく生きぬいた邦子とその作品は、今も愛され続けています。
邦子が亡くなる前の10年間を過ごした街。数々の有名な脚本や受賞作がここで生まれました。骨董品店、和・洋菓子店、書店、カフェ等が並ぶこの界隈は、当時もモダンとクラシックが共存するおしゃれな街でした。
南青山
東京メトロ銀座線・半蔵門線「表参道駅」下車
明治43年、芝浦から日本初の南極探検隊が出港したのを記念して、当時の木造船「開南丸」のレリーフとペンギン像のある記念碑が建っています。船を模した遊具が人気です。
参考:「文藝別冊 向田邦子」(河出書房新社)「向田邦子と昭和の東京」(新潮社)「向田邦子の青春―写真とエッセイで綴る姉の素顔」 (文藝春秋)