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「決定版 宇野千代の世界」より
1921年に作家デビュー。1936年、日本初のファッション雑誌「スタイル」を発行する。きものデザイナーとしても活躍し、「宇野千代きもの研究所」を主宰。1974年、勲三等瑞宝章を受章。1990年、文化功労者として顕彰される。
宇野千代は、1897年山口県岩国市に生まれました。女学校を卒業後、小学校の代用教員になり、岩国と京城(現在のソウル)で教員を務めた後、京都で高校に通っていた従兄弟の藤村忠と同棲。藤村の進学に伴い上京し、雑誌編集者や作家と出会った千代は、懸賞小説に応募するようになります。結婚後、移住した札幌で執筆した短編『脂粉の顔』が新聞の懸賞に1等で入選し、小説家としてデビューしました。その後、上京した際に新人作家の尾崎士郎と出会い、東京で暮らし始めます。
藤村と別れ尾崎と再婚した千代は、『或る女の生活』等の作品により作家としての地位を固めていきますが、あるとき画家の東郷青児と取材を通して知り合い、世田谷に洋館を建てて共に暮らし始めます。東郷とは約4年の同棲生活でしたが、交流は晩年まで続きました。
その後、千代は大きな事業を起こします。日本初のファッション雑誌「スタイル」の創刊です。千代は経営者、編集長、ライター、インタビュアーと八面六臂の活躍をします。編集に携わった新聞記者の北原武夫は公私にわたるパートナーとなり、創刊4年目となる年に結婚しました。
「スタイル」はその後、戦争の影響で廃刊を余儀なくされますが、終戦後に復刊を果たします。発行日にはビルに行列ができるほどの反響で、戦後の女性たちを強く力づけました。
「スタイル」の編集がきっかけで、きものデザイナーとしても名を馳せるようになっていた千代は、1949年、「宇野千代きもの研究所」を設立。「スタイル」の臨時増刊として「きもの読本」も刊行します。本誌の売り上げも好調で、暮らしは豊かになりました。しかしそんな折、スタイル社の脱税が発覚。さらに他社からもファッション誌が次々と創刊されたことから経営が傾き、住んでいた家を手放して青山南町(現在の南青山)へと移り住みます。その後、多額の負債を背負ってスタイル社は倒産。北原とも離婚し、以降は独身で過ごすことになりますが、一方で嬉しい出来事もありました。1957年にアメリカで行われたきものショーが大成功。さらに「文體(ぶんたい)」「中央公論」に連載していた『おはん』が野間文芸賞を受賞したのです。会社設立からの28年は、明と暗が交互に訪れる波乱の時期でした。
70代となった千代は、ある一本の桜の話を耳にします。それは、台風によって枯死寸前となっていた岐阜県の「淡墨桜」でした。千代は寄稿文を書いて県知事に保護を訴え、募金活動も始めました。熱心な働きかけによって桜はよみがえり、今も美しい姿を見ることができます。そしてこの体験を元に、小説『淡墨の桜』が生まれました。
晩年、さらに執筆活動に集中するようになった千代。86歳で出版した『生きていく私』は100万部を超えるベストセラーになり、98歳になっても毎日机に向かっていたといいます。ドラマチックな人生を歩んだ千代は数々の金言でも知られ、「私、何だか、死なないような気がするんですよ」という前向きな言葉も残しています。
1996年、98歳で生涯を閉じた千代は、散歩に出かけることも多かったという青山の梅窓院に眠っています。墓石には桜の花とともに千代の字で「幸福は幸福を呼ぶ」と刻まれています。
港区南青山2-26-38
東京メトロ「外苑前駅」1b出口正面
3人の息子を太平洋戦争で亡くした田沢鐐二翁の呼びかけにより、全国の小・中学生が廃品回収で集めた費用等によって建設されました。平和の象徴である鳩があしらわれています。
参考:「決定版 宇野千代の世界」(ユーリーグ)「人生はいつだって今が最高! 宇野千代の箴言集」(海竜社) 協力:藤江 淳子