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同族の大岡忠光との談話より。何事も誠意をもって取り計らうことが大切である、という意味
江戸幕府八代将軍・徳川吉宗が進めた享保(きょうほう)の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わった。旗本から大名となり、西大平藩初代藩主となる。
時代劇等で「名奉行 大岡越前」として描かれている。
「図説 江戸町奉行所事典」
(笹間良彦・著/柏書房)より
大岡忠相は、今日「大岡越前」の名でよく知られる人物です。1677年、旗本の四男として誕生し、10歳で親類の養子となりました。翌年には将軍綱吉に拝謁(はいえつ)しますが、2年後、実兄の忠品(ただしな)が将軍の怒りに触れ、流刑となってしまいます。その後も従兄弟が殺人事件を起こして謹慎の身となったり、養父・実父を相次いで亡くしたりと、若いころの忠相は不運続きといえました。旗本として役職を得るのは1702年、忠相が26歳の時。将軍の身辺警護をする「御書院番(ごしょいんばん)」が、キャリアの出発点でした。
1703年に発生した元禄大地震の対応が認められる等、忠相は順調に出世します。旗本や御家人を監察する目付になり、その後伊勢の統治を行う山田奉行、さらに土木、建築関係を司る普請(ふしん)奉行に就任。そして1716年に八代将軍吉宗が就任すると、間もなく江戸南町奉行に抜擢され、これを機に「越前守」を名乗ることとなります。
この時代の日本は人口が増え、秩序が乱れがちで不安が多い時期でした。忠相は吉宗のもとで、のちに「亨保の改革」と呼ばれる抜本的な方策を講じていきました。その一つが、物価と米価の調整です。商人に業種ごとの組合を結成させ、流通段階での物資量や価格を報告させました。これにより買い占めや売り惜しみがなくなり、物価の高騰をおさえました。下落していた米価は、米の信用取引を解禁して市場を刺激することで安定化を図りました。
貨幣価値の安定も大きな課題でした。忠相は度重なる改鋳で混乱していた通貨を元文小判等に統一し、金銀のレートを調整します。この政策は、利益を守ろうとする両替商との摩擦を生みましたが、自らの進退をかけて断行しました。
町奉行として、忠相はほかにも優れた行政改革に取り組んでいます。代表的なものが、防火対策です。多発する火災への対策として、町人30人からなる町火消組合を創設し、住民自らが消火にあたる制度を整えました。また、飲食店や娯楽施設の規制を緩和して商業を活性化させ、物見遊山を奨励して消費を促したり、町医師の意見をもとに貧しい人のための養生所(無料の医療施設)の設立に尽力したりしました。
町奉行への就任と同時に、忠相は裁判や政策の立案を担う評定所一座(ひょうじょうじょいちざ)に加わり、以後34年間にわたって司法にも携わります。田畑や漁場の権利にかかわる地域間のもめごと等を審議するかたわら、法典の編纂や公文書の整理にもつとめ、官僚制度の発達に貢献しました。
実直な仕事ぶりが認められ、忠相は1736年に寺社奉行に任命されます。寺社奉行は、全国の寺社、宗教関係者、芸能者を管理する職務で、通常は大名が就任する職格です。同僚の中には破格の出世をやっかみ、何かにつけて低く扱う者もいましたが、忠相は自分より一回り以上年下の相手を立てながら、補佐役に回ったといいます。働きが認められて徐々に領地を与えられ、12年後にはついに一万石の大名となりました。
1751年、忠相に厚い信頼を寄せていた吉宗が病没。葬儀を取り仕切ると、同じ年の12月、自らも75歳で生涯を閉じました。墓所のある茅ヶ崎市では、毎年忠相の事績を讃える「大岡越前祭」が開催されています。講談や時代劇で描かれる「大岡越前」はフィクションですが、有能で謙虚な忠相への信望が、後世に語られる姿につながったのでしょう。
忠相が日頃信仰していた豊川稲荷の分霊を祀る寺院。院内には忠相の位牌を安置する大岡廟がおかれています。
港区元赤坂1-4-7
東京メトロ「赤坂見附駅」または「永田町駅」から徒歩5分
TEL : 03-3408-3414
参考:「大岡忠相」(吉川弘文館)「江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革」(NHK出版)