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(『日本博士全伝』より。「斗そうの小使」は「薄給の小役人」という意味)
工部大学校(現在の東京大学工学部建築学科)第一期生としてイギリス人建築家ジョサイア・コンドルに西洋建築を学び、県庁や博物館、貴族の邸宅等の設計に携わる。代表作に旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)。1916年、勲一等旭日大綬章受章。
片山東熊は1854年、長州・萩の下級藩士の家に、四人兄弟の末っ子として生まれました。兄たちの中で腕白に育ちますが、我慢強さも持ち合わせた男の子でした。時代は幕末の動乱期。東熊は、体が大きかったことを幸いに、年齢を偽って12歳で奇兵隊に入隊。1868年の戊辰戦争では、山縣有朋が指揮する討幕軍の兵として出陣しました。
戦乱が治まったのち、工部省(工業・産業を統括していた官庁)に作られた工学寮工学校に官費で入学。同期には、辰野金吾や曾禰(そね)達蔵(たつぞう)ら、後の有名建築家がいました。
1877年に工学校は工部大学校となり、教授としてイギリス人建築士コンドルが着任しました。お雇い外国人として来日していたコンドルは、卒業までの3年足らずの間、弟子たちに建築史から製図、施工方法まで丁寧に教えました。座学だけでなく、現場実習や実際の設計の手伝い等を通し、東熊たちはわずかな期間で西洋建築の高度な知識と技術を習得していきました。
工部大学校を卒業した東熊は、工部省へ入省。2年後の1881年、恩師コンドルが設計を手がけた有栖川宮熾仁(たるひと)親王邸の建築掛(がかり)に任命されました。翌年東熊は、熾仁親王の公務に随行し、ヨーロッパ9カ国の宮殿を視察。さらに約1年間現地に滞在して室内装飾品の調達を行い、ルネサンス様式の壮麗な邸宅を完成させました。
その後、外務省の建築掛として清国の北京公使館の建築を担当。約2年間を北京で過ごし、帰国後は皇居御造営事務局に出仕します。皇居御造営は、明治宮殿と呼ばれる皇室の中心的施設を建造するもので、各方面から優秀な技術者が集められました。東熊はここでも、ドイツに渡り宮殿装飾品の製作監督や情報収集にあたり、大きく貢献しました。
造営後は、宮内省内匠寮(たくみりょう)の技師として残務処理をする傍ら、大学で教鞭をとったり、庁舎、病院、博物館といった公共施設の設計を手がけたりと活躍の場を広げます。
当時の皇太子殿下のご成婚を機に、1897年、ご夫妻の新居として東宮御所建設計画が浮上。東熊は技術部門のトップである技監に任命され、生涯最大の仕事に取り組むことになりました。再びヨーロッパに渡り宮殿建築を研究し、外観はネオ・バロック様式の左右対称の荘厳なデザイン、内装はヨーロッパの各種様式で絢爛豪華に飾りました。さらに耐震のための鉄骨補強や最新式の暖房器具等、性能面でも最高峰の技術を取り入れました。
1909年、実に10年の歳月をかけて東宮御所は完成。この間、東熊は宮内省内匠寮の最高ポストである内匠頭(たくみのかみ)に技術者として初めて昇進し、名実ともに栄誉を手にしました。
功績が認められ、勲一等旭日大綬章を受章した翌年の1917年、東熊は病のため63歳で死去。現在の東宮御所は1960年に建てられた和風建築ですが、日本初の宮殿建築となった東熊の旧東宮御所は昭和期に改修されて国の迎賓施設となり、今でもその秀麗な姿を見ることができます。
2009年、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定。現在は一般公開もされています(参観可能な日程、開館状況、申込み方法等は内閣府HPまで)。
港区元赤坂2-1-1
JR・東京メトロ「四ツ谷駅」より徒歩約7分
参考:「日本の建築[明治大正昭和]2
様式の礎」(三省堂)/内閣府ホームページ(迎賓館)
http://www8.cao.go.jp/geihinkan