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(『戸板裁縫全書』より)
多くの女学校で裁縫教師を務め、1902年に戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)を創立。合理的な「分解式一斉教授法」を採用し、裁縫技術教授のスピード化を図る等、日本の女子教育の基盤づくりに大きく貢献した。
戸板関子は1869年、仙台藩士の一人娘として生まれました。父の戸板善内は漢学者、祖父の戸板一左衛門は藩の天文学者であり数学者という、代々学者の家庭でした。生まれた年に父を亡くしたため、関子は母の手ひとつで育てられました。
関子が最初に通った学校は「松操女学校」といい、女子に向けた裁縫塾「松操私塾」が前身となって創立された学校でした。関子はさらに学問に励み、18歳のときには郷里の仙台で小学校の教員を務めるようになりました。
学問や裁縫の実学を学んだ関子は、さらに知識を磨くべく上京。日本で最初の女子教育を行ったフェリス和英女学校で英語を学びながら、東洋英和女学校、東京女学館で裁縫技術を教えます。
この間、麻布にある鳥居坂教会で牧師をしていた武田芳三郎と出会い、1893年、24歳のときに結婚。故郷の母を呼び寄せていったんは家庭に入りますが、教育への情熱から夫と離れて戸板姓に戻ります。後に二人は和解し、関子が一人娘であったために芳三郎が戸板家に入ることで再び夫婦となりました。以降、関子は生涯戸板姓を名乗ることとなります。
女性の教育や裁縫技術の習得に尽力した関子は、1902年2月、32歳の若さで「戸板裁縫学校」を芝公園の一角に創立しました。それまで裁縫の教育は一対一で教える形式が一般的でしたが、戸板裁縫学校では生徒を教室に集め一度に数十人に教えるという「分解式一斉教授法」を採用。現在のような授業形態がとられたのです。裁縫技術教授のスピード化を図ったこの合理的な授業によって、生徒数は激増。2 年後に現在の戸板女子短期大学がある芝2 丁目に移転しました。1916年には、現在の三田国際学園中学校・高等学校の前身となる、三田高等女学校も開校しました。
学校設立にあたり、関子が掲げた教育理念は「社会に、そして人類に貢献できる人材の育成」。そして「知好楽」という指導理念のもと、職業に必要な能力を育成するとともに、女性の人格形成と自立を目指しました。
1913年に学校を財団法人化してから、関子は三田高等女学校をはじめとして三田博和女学校、大森南女学校、城南女学校、大森高等女学校と次々に学校を設立し、校長に就任しました。
敬虔なクリスチャンでもあったことから、関子はキリスト教の信念に基づいて、社会事業や慈善事業、少年少女の感化事業にも取り組んでいます。そうした貢献が認められ、勲六等瑞宝章を受章。多くの功績を残して、1929年、60歳で病のため亡くなりました。
裁縫という実践的なものを通して、女性の人格の形成を目指した関子。設立した学校からは、これまで5万人以上の人材が巣立ちました。「社会で活躍する女性を育成する」という教育理念は、学園の長い歴史の中で今も受け継がれています。
2017年に創立115周年を迎える歴史ある学校。現在では服飾芸術科、食物栄養科、国際コミュニケーション学科があり、創立当時から実学の精神を貫いています。
港区芝2-21-17
都営地下鉄「芝公園駅」より徒歩1分
参考:「日本女性人名辞典」(日本図書センター) 協力:戸板女子短期大学