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(「週刊朝日」1950年5月28日号)
戦前から戦後にかけて、日本初のプロの女性漫画家として活躍。
代表作『サザエさん』『意地悪ばあさん』等の作品は国民的人気となった。
1982年紫綬褒章受章、1992年国民栄誉賞受賞。
長谷川町子は1920年、佐賀県に生まれました。父の勇吉は炭鉱会社に勤める機械技術者でしたが、週末には家族で公園や動物園に出かけるマイホームパパでした。幼い頃の町子は男勝りのわんぱく娘で、姉妹や近所の子どもとケンカすることもしばしばでした。一方、絵を描くことが大好きで、展覧会では必ず入賞したといいます。
小学生のときに「将来は絵を学びたい」と考えるようになりましたが、13歳のときに父が病死。翌年、母貞子は娘たちの絵の才能を伸ばすため、一家ではるばる上京します。
一家は霞町(現在の西麻布)に住まいを構え、町子は山脇高等女学校(現在の山脇学園)3 年に編入しました。この頃漫画に興味を持った町子は、当時『のらくろ』を連載中の人気漫画家・田河水泡に弟子入りします。翌年、雑誌「少女倶楽部」に『狸の面』を発表し、漫画家デビュー。天才少女漫画家として注目を浴びました。
女学校を卒業すると、町子は内弟子として田河家に住み込んで家事の手伝いをしながら漫画を学びます。明るく素直な町子は公私ともに可愛がられましたが、家族と離れた寂しさに耐えきれず、1 年足らずで実家に戻ることとなりました。その後も師の指導を受けながら『ヒィフゥみよチャン』『仲よし手帖』等の漫画を発表します。
戦争が始まると、一家は郷里の九州へ疎開しました。町子は西日本新聞社に入社し、戦況の漫画ルポを描く等していました。終戦後退社し、しばらくは自宅で畑仕事をして暮らしていましたが、そこへフクニチ新聞社から漫画連載の依頼が舞い込み、二つ返事で引き受けました。毎日散歩していた自宅近くの海辺の風景を眺めているうちに、登場人物に海にちなんだ名前をつけることを思いつき、砂に文字を書きながら「サザエ」「カツオ」「ワカメ」と決めていきました。こうして1946年4月、「夕刊フクニチ」にて『サザエさん』の 連載が始まったのです。
明るく陽気な磯野家の日常を描いた『サザエさん』は人気を博しました。しかし東京で活動することもあきらめてはおらず、同じ年の12月、一家は再上京。サザエさんの結婚やタラちゃんの誕生等の転機を迎えながら休載と再開を繰り返した『サザエさん』は、1949 年、夕刊フクニチから朝日新聞へと連載の場を移しました。
単行本『サザエさん』第一巻
ラジオドラマ、映画、テレビアニメで放送された『サザエさん』は国民的漫画となりました。他にも『意地悪ばあさん』『エプロンおばさん』等の連載を手がけ、町子はまさに身を削るように仕事に打ち込みました。
朝日新聞での連載は約25年に及びましたが、その間幾度も休載しています。時には「辞める」と宣言して庭で道具を燃やしてしまうこともありました。休載中の町子は粘土細工や刺繍をして思う存分楽しみました。しかししばらくするとやはり漫画が描きたくなり、ちょうどそんな頃に新聞社から再開の打診が来て連載を復活させるという調子でした。胃がんを患い、手術を受けたこともありましたが、手術直後のベッドの上でも原稿に指示を出し、「原稿用紙を持ってきて」と言って家族を驚かせました。
1974 年に『サザエさん』の最後の休載告知をしたあとは、漫画エッセイの連載等をしながらおだやかに過ごしました。72歳で亡くなった町子は、その年漫画家として初めて国民栄誉賞を受賞。自ら生み出したキャラクターとともに、今も国民に愛され続けています。
長谷川町子美術館
町子が上京後、編入して学んだ学校。「女性の本質を磨き、いつの時代にも適応できる教養高き女性の育成」を建学の精神とし、各界で活躍する多くの著名人を輩出しています。
港区赤坂4-10-36
東京メトロ「赤坂見附駅」より徒歩5分
参考:「長谷川町子―『サザエさん』とともに歩んだ人生」(筑摩書房)「長谷川町子 思い出記念館」(朝日新聞社)「サザエさんうちあけ話・似たもの一家」(朝日新聞社)© 長谷川町子美術館