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港区探訪

港区今昔STORY

第2回 汐留イタリア街

汐留イタリア街 写真

街を維持管理するため、地元の人々が清掃やプランターの管理を行っています。

まるでヨーロッパ!石畳敷きのフォトジェニックな街

汐留シオサイト内、JR線を境にした西側エリアにあたる「イタリア街」。広々とした公園を中心に、イタリア風の建物が並ぶこの街は、どのように形づくられたのでしょうか。今回は汐留イタリア街の歴史と魅力に迫ります!

江戸時代の武家屋敷跡地が
日本初の駅となり、再開発されるまで

近代的な高層ビルが林立する汐留シオサイトの一角に、周囲とは雰囲気が違う「イタリア街」と呼ばれるエリアがあるのをご存じでしょうか? その街並みの美しさから、数多くのドラマやCMのロケ地にも選ばれています。

江戸時代にさかのぼると、この場所には会津藩保科家(のち松平家)の大名屋敷がありました。並んで龍野藩脇坂家、仙台藩伊達家の屋敷もあり、一帯が武家屋敷街として栄えていました。明治維新後、3つの屋敷跡地は新政府に接収され、日本初の鉄道の始発駅「新橋停車場」に。やがて貨物専用の「汐留駅」となり、1986年までの114年間、日本の物流を支えました。翌年、国鉄は民営化。旧汐留駅の跡地は東京都や民間大手企業に引き渡され、1995年には汐留の超大規模な再開発が始まりました。

汐留イタリア街 消防署 写真

イタリア街では消防署もキュート!芝消防署の設計にあたり、地元関係者たちはミラノの消防署を見学に行ったそうです。

汐留イタリア街 イタリア街広場 写真

街の中心につくられた「イタリア街広場」には、かつて新橋停車場で使われていた転車台の基礎石があしらわれています。この基礎石は、汐留の再開発にともなう遺跡調査で発掘されたもの。

住民らが未来を見すえ、
一致団結してつくりあげたイタリア街

イタリア街に話をもどしましょう。汐留貨物駅があった時代、全国から運ばれた荷物の運送ターミナルとして機能したのが、西側エリア(現在のイタリア街)でした。このエリアには昔から住み続けている人(地権者)が多く、再開発の話が持ち上がったとき、江戸時代から続くこの地を未来にどうつなげるか、住民が一体となり話し合いを繰り返したそう。1994年から地元主体で街づくりが進められ、現在は地権者組織であるNPO「コムーネ汐留」が担っています。街づくりにあたり、当初からイタリア街では「ヨーロッパのように街の中心に広場をつくろう」という案に賛同が集まりました。中央に公園を設ける都市づくりはイタリアに代表されるもの。住民たちはイタリア政府関係者に相談したり、イタリアに視察に行く等して構想を練り、イタリアの文化もとり入れていこうという方針に。建物の1階に一般の人が利用できるショップが入っているのは、「通りと一体的に人間味のある界隈をつくる」というイタリア文化にならっているのです。

汐留イタリア街 写真

住民が入れ替わっても美しい街並みが保たれるよう、建物にアーチ型デザインをとり入れる等、使用する色彩や看板の出し方までさまざまなルールが設けられています。

イタリア街には、景観を守るため、建物のデザイン等に細かなルールがあります。このルールはミラノの建築家のアドバイスのもとに決められたもので、建物を建てる際には地元と事業者が相談しながらルールに基づいて協力しています。こうした努力が完成度の高い街づくりにつながっているのです。

今後も新しいビルの完成が控える等、イタリア街はまだまだ進化中。何度訪れても新しい表情を見せてくれる街で、海外気分にひたるのも素敵ですね。

イタリア街と汐留シオサイト他街区を結ぶ高架下トンネル 写真

イタリア街と汐留シオサイト他街区を結ぶ高架下トンネル。鋼板を折り曲げた天井は、折紙をイメージしているそう。トンネル入り口の柱には汐留にちなみ、汐の満ち引きをモチーフにした模様が。

汐留イタリア街 1994年頃 写真
汐留イタリア街 現在 写真

街の一角を同じ位置から撮った写真。上のお蕎麦屋さんが写っているのは再開発前、下は現在の撮影。対面の弁当店は健在で、いまも「お弁当」ののぼり旗がはためきます。

都市プランナー三谷八寿子さん写真

「街ぐるみのイベントも多数開催。遊びに来てください!」と、20年以上前から汐留再開発に関わり、イタリア街への思い入れを語ってくださった都市プランナーの三谷八寿子さん。

汐留イタリア街

港区東新橋2丁目(汐留シオサイト西街区)