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正面入口の階段も緻密に再現。
出土した階段跡(ガラス内)と段の位置が揃えられているのがわかります。
明治初期、日本最初の鉄道ターミナルとして誕生した「新橋停車場」。当時の人々は停車場を新しい文化の象徴として興味津々に見つめたことでしょう。今回は、日本の近代化を力強く支えた旧新橋停車場(のちの汐留貨物駅)の歴史と、現在の姿をご紹介します。
日本で初めて鉄道が開業したのは、明治維新から間もない1872年。区間は新橋~横浜間で、東京側の始発駅が「新橋停車場」でした。といっても現在の新橋駅とは位置が異なり、いまで言うとJR新橋駅から汐留方面に5分ほど歩いたところになります。
行き先である横浜には国際港があります。海外へ渡る手段は船しかなかった時代、人々は新橋から汽車に乗り、横浜港から外国へと旅立ちました。また海外からもさまざまな品とともに西洋文化がもたらされ、横浜から東京へと広がっていったのです。当時の乗車券を見ると、表面は日本語・英語、裏面は英語・フランス語・ドイツ語で乗車区間等が記されています。おもしろいことに現代よりも国際色豊かな雰囲気がありますね。
鉄道の開業式の様子を描いた浮世絵。明治天皇の御召列車が横浜から新橋停車場に戻ってきたところ。停車場が提灯や旗でにぎやかに飾られています。(港区立郷土歴史館所蔵)
新橋~横浜間の所要時間は53分。運賃は上・中・下等に分かれ、下等でも37銭5厘(現在換算で5,000円程度)。庶民にとってはかなり高額でした。ただし、身分制度が明確だった江戸時代とは違い、鉄道はお金を払えば誰でも乗ることができました。その点も文明開化の1つだったと言えるでしょう。
明治天皇や大隈重信といった要人のほか、文豪らも新橋停車場を利用したという記録が残されています。夏目漱石は友人の見送りや出迎えのために停車場を訪れ、永井荷風は停車場の待合所について「無類上等のcafeである」と随筆に書いています。
鉄道建設のための測量の起点となった「0哩(マイル)標識」。
東京駅が開業すると旅客機能は烏森駅(現在の新橋駅)に移り、新橋停車場は貨物専用の「汐留駅」に改称。野菜、鮮魚、資材から個人の荷物まであらゆる物が鉄道で運ばれました。鉄道貨物は昭和40年代にピークを迎え、その後は自動車による物流の発達に押されて停滞し、やがて1986年、汐留貨物駅は長い歴史に幕を閉じました。
開業当時の駅舎は関東大震災による焼失や改築によって正確な位置が不明でしたが、平成の汐留再開発にともなう発掘調査で駅舎やホーム等の遺構が発掘されました。現在、かつて駅舎があった位置には、当時の外観を忠実に再現した「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」が建てられ、無料で遺構や出土品、鉄道に関する企画展を楽しめる施設となっています。
鉄道発祥の地となった新橋周辺には、いまやJR、地下鉄、ゆりかもめ等さまざまな路線が乗り入れ、街はビジネスの大拠点に。これからまた街がどう発展し変化していくか、とても楽しみですね。
開業当時の新橋停車場の写真。駅舎はアメリカ人R・P・ブリジェンスによる設計で、当時としてはまだ珍しい西洋建築でした。(横浜開港資料館所蔵)
発掘調査により出土した遺構の全体像。右に長くのびているのがプラットホームで、左側が駅舎の跡。駅舎とプラットホームの一部は「旧新橋停車場跡」として国の史跡に指定されています。(東京都教育委員会所蔵)
出土した駅舎の基礎石積みをガラス床ごしに直に見学できる室内展示は、鉄道歴史展示室のいちばんの見どころ。展示室が遺構の真上に建てられていることがわかります。
出土品の一部も展示されています。上写真は、当時の乗車券や荷札等。下写真は駅弁と一緒に売られていたお茶等の入れ物。陶器やガラス製の容器が使い捨てされていました。(東京都教育委員会所蔵)
【住所】
港区東新橋1-5-3
【開館時間】
10:00~17:00(入館は16:45まで)
【休館日】
月曜(祝日の場合は翌日)、年末年始、展示替え期間中
【入場料】
無料
開業当時の姿を石積みまで再現したプラットホーム
★当初、日本には鉄道や機関車を作り出す設備がなかったため、新橋停車場の広大な敷地内に機関車を作る工場から発電所までが併設されていました。
★日本で初めて本格的な野球チームが結成されたのが新橋停車場の敷地内で、その名も「新橋アスレチック倶楽部」。鉄道技師・平岡煕(ひろし)がアメリカ留学中にベースボールを知り、帰国後同僚たちに野球を広めたことがきっかけ。
★開業当初の乗車運賃がかなり割高に設定されたのは、運転がまだ試行的だったため、あまり多くの人に乗車されないように…という意図があったそう。
いかがでしたか? ぜひ周りの人にも教えてあげてくださいね!