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港区探訪

港区今昔STORY

第8回 東京ミッドタウン

東京ミッドタウン 写真

イベント「DESIGN TOUCH 2019」の様子

400年を経て一般開放された地に建つ大型複合施設

東京ミッドタウンといえば、ショッピングに、食事に、アート施設にと、子どもからお年寄りまで楽しめる大型複合施設。ところがほんの12年前まで、長らくこの場所は一般人が出入りできないエリアだったのです。

大名屋敷、軍用地、防衛庁…
土地の歴史を振り返ってみると

多くの人でにぎわう繁華街、六本木の一角にそびえたつ東京ミッドタウン。年間約3,000万人が訪れる人気スポットです。しかし実は、東京ミッドタウンが開館した2007年までの約400年間、この場所は一般の人は立ち入りが許されない区域でした。

いま東京ミッドタウンが建つ場所は、江戸時代には長州藩毛利家下屋敷があり、明治時代は軍用地となって兵舎が並び、第二次世界大戦後は連合国軍に接収され、さらにその後は防衛庁が置かれました。

2000年に防衛庁が移転したことから、この区域は一般に開放されることになり、日本有数の大型複合施設、東京ミッドタウンとして生まれ変わったというわけです。

開発に先立って発掘調査を行ったところ、3万年前の旧石器時代の石器や、古墳時代の集落跡等が次々と出土し、港区における人類の生活を伝える最古の発見となりました。

東京ミッドタウン開発前の発掘調査 写真

写真左)発掘調査で3万年前の地層から出土した旧石器時代の遺跡。この調査によって、港区における人間の活動の歴史は1万年以上さかのぼることに。
写真右)左写真の遺跡から出土したナイフ形石器。
『東京ミッドタウン前史 赤坂檜町の三万年』(港区立港郷土資料館発行)所載
(東京都教育委員会所蔵)

東京ミッドタウン開発前 ー軍用地ー 写真

軍用地だった昭和初期に、近衛歩兵連隊の軍旗祭が催されている様子。
『東京ミッドタウン前史 赤坂檜町の三万年』(港区立港郷土資料館発行)所載

閉ざされた土地から、オープンな複合施設へ
和の伝統美を思わせる意匠があちこちに

東京ミッドタウンの開発は土地の歴史を意識しながら進められました。まわりを囲む並木道には、旧防衛庁のクスノキやサクラが約140本移植されているほか、発掘調査で出土した毛利家下屋敷の石を組み直した擁壁も設けられています。同じく毛利家下屋敷の敷地内にあった隣の檜町公園も一体的に整備され、開かれた心地よい空間となりました。

東京ミッドタウン開発前 江戸時代の長州藩毛利家下屋敷の見取り図

江戸時代の長州藩毛利家下屋敷の見取り図(赤色部分は現在の建物や通路)。藩主の公務を行う「御表御殿」は、東京ミッドタウンのメインショッピングエリアに。庭園があったところは檜町公園となり、いまも当時と同じ位置に池が設けられています。

また、国内外から多くの人が集まる場所として、東京ミッドタウンの設計コンセプトには日本の伝統美がとり入れられています。建物群は日本庭園の様式のひとつである枯山水をイメージして配置され、外観や内装には障子や手水といった和のモチーフが現代的なアレンジでデザインされているのです。

東京ミッドタウン 写真

伝統的な日本庭園である枯山水にならい、少しずつ角度をつけて配置された東京ミッドタウンのビル群。

東京ミッドタウン 写真

東京ミッドタウンの北側には、140mに及ぶサクラの並木道が。旧防衛庁の敷地から移植されたサクラが、春には見事な花を咲かせます。

東京ミッドタウンでは12月25日までイルミネーション「スターライトガーデン2019」を開催中。歴史の残り香と幻想的なイルミネーションを一度に楽しめる機会です。

東京ミッドタウン内部 写真

ショッピングエリアには天井から水がしたたるオブジェが。神社の手水をイメージしたもの。

遺構でつくられた擁壁/檜町公園へ続く斜面 写真

写真上)発掘調査で出土した遺構でつくられた擁壁。
写真下)隣の檜町公園へ続くなだらかな斜面。地形を生かしてゾーニングしながら、檜町公園と一体的な空間づくりが行われました。

協力/東京ミッドタウンマネジメント株式会社