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港区探訪

港区ー祈りの聖地 今昔STORY

第4回 報土寺

三分坂

報土寺は、港区のなかでも急坂として知られる三分坂に面しています。三分坂をはさんで向かいにある一ツ木公園の付近には、江戸時代、広島藩松平家の下屋敷がありました。

江戸の風情を今に残す、相撲史上最強の力士が眠る寺院

赤坂の一角に静かにたたずむ報土寺。江戸の昔から力士にゆかりが深く、また歴史に翻弄された経歴をもつ梵鐘があるなど、個性的なエピソードにあふれる寺です。

弓なりの形が珍しい築地塀など江戸時代の歴史的遺構も

 赤坂駅の西側に、三分坂(さんぷんざか)と呼ばれる傾斜のきつい坂があります。その三分坂を下りたところにあるのが、江戸時代初期の1614年に創建された報土寺です。報土寺を開いた永受(えいじゅ)法師は越前の武将である朝倉義景の末裔で、義景がいつも兜の中に入れていたと伝えられる阿弥陀如来像が報土寺の本尊となっています。当初は現在の赤坂5丁目付近にありましたが、江戸幕府による用地取り上げにより、1780年に現在の地に移転。太平洋戦争の空襲で本堂を焼失するも、1965年に再建されました。三分坂に沿ってたつ築地塀(ついじべい)(瓦を積み上げ、塗りかためた塀)は、この地に移転してきた当時のもので、江戸時代の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物として港区の文化財に指定されています。

三分坂 写真

あまりに急な坂のために車賃が銀三分増しになったことからその名がついた「三分坂」。報土寺の前から始まり、坂を上って突き当りを左に曲がった先まで続きます。

1959年の三分坂 写真

昭和半ばの1959年に撮影された三分坂。(港区立郷土歴史館所蔵)

江戸の名力士、雷電為右衛門とゆかりが深い寺

 報土寺には、江戸時代に活躍した力士・雷電為右衛門(らいでんためえもん)の墓があります。雷電は21年間の土俵生活でたった10番しか負けたことがない史上最強の力士です。報土寺に初めての梵鐘(ぼんしょう)を寄進したのが雷電でした。ところがその鐘は、力士の姿や土俵をあしらうなど異形であり、「天下無雙」の文字まで刻まれていたため、ただちに寺社奉行に没収となります。以来、報土寺には鐘がないままでしたが、明治後期の1908年、写真家・丸木利陽の呼びかけで新たな鐘が寄進されました。この鐘は戦時中に供出されるも、後年、別の寺で使われていることがわかり、47年ぶりに報土寺に帰還。このとき一番鐘をついたのは、昭和の大横綱・千代の富士でした。数奇な運命をたどった梵鐘は今日も報土寺で深い音色を響かせています。

鐘楼 写真

現在の鐘楼の屋根には、雷電の「雷」の字が。雷電が寄進した初代の鐘楼を再現しています。

茶碗 写真

雷電から報土寺に贈られた茶碗。雷電と住職はどちらも大の酒好きで、この茶碗で酒を酌み交わし、意気投合したそうです。

梵鐘の図

雷電が寄進した梵鐘の図。

井部香山の墓 写真

境内には、江戸時代に活躍した儒学者・井部香山の墓もあります。

鐘楼の土台 写真

現在の鐘楼は、梵鐘の帰還に合わせて平成のはじめに再建されたものですが、石積みの土台は江戸時代のもの。

雷電の墓 写真 手玉石 写真

雷電の墓。墓の手前には、雷電が手玉に取ったという逸話が残る手玉石が。「三十貫匁」と刻まれたこの石は、松平不昧公が雷電に授けたものと言われています。

雷電の手形を彫った石 写真

境内に置かれた、雷電の手形を彫った石。手をあてて比べてみると、雷電の手がいかに巨大だったかがよくわかります。

雷電の姿を描いた錦絵 写真

雷電の姿を描いた錦絵(1797年)。雲州松江藩のお抱え力士だった雷電は、藩主・松平不昧公の紹介で報土寺の住職と知り合いました。

住職の言葉

がんばらなくて いいんだよ
いきをぬくことも ひつようだよ
息ぬくことが 生きぬく道