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港区探訪

港区ー憩いの場 今昔STORY

第3回 埠頭公園

第3回 埠頭公園

1936年に設置された南極探検隊の記念碑。海を進む開南丸を描いたレリーフや、探検隊員名が彫られた銘鈑があしらわれています。ペンギン像は2代目で、1982年の改修の際に作られたもの。

南極探検に由来する記念碑や遊具が充実

芝浦ふ頭駅の西側、海岸通り沿いにある埠頭公園。およそ110年前、この地から、白瀬矗(しらせのぶ)隊長率いる27名の探検隊が南極を目指して船出しました。

船の遊具に乗って「南極へ出発!」砂場の海で探検気分が味わえる

明治後期、芝浦の海から一艘(そう)の木造船「開南丸」が、日本初の南極探検へと旅立ちました。探検隊は南極上陸に成功し、無事帰還。後年、埋め立てられた出帆の地につくられたのが、今回紹介する埠頭公園です。
埠頭公園が開園したのは昭和のはじめ、1935年のこと。翌年、南極探検隊25周年記念事業会の寄付により、園内に南極探検隊の記念碑が設置されました。現在の埠頭公園には、開南丸をモチーフにした船の木製遊具やクジラ型のすべり台といった南極探検をイメージさせる遊具が置かれており、子どもたちに大人気。ほかにも広い砂場やスイング遊具など、幅広い年齢に対応した遊具が充実しています。夏になると、ペンギンがあしらわれたじゃぶじゃぶ池に水が張られ、子どもたちが夢中で水遊びをする姿も。
この付近は日本プロ野球発祥の地でもあることから、園内には少年野球場も併設されています。

未知の地への憧れを原動力に日本人初の偉業を成し遂げた南極探検隊

さて、日本初の南極探検は無謀ともいえる挑戦でした。政府からは補助金が出なかったうえ、船の入手にてこずり、やっと手配したのは小型の木造帆船。それを補強し18馬力の補助エンジンを搭載した開南丸は、他国の探検船と比べてかなり貧弱な装備といわざるを得ませんでした。開南丸は1910年11月29日に日本を発ち、ニュージーランドを経て南極を目指しますが、氷塊に阻まれオーストラリアのシドニーに引き返します。そこで南極の夏を待ち、1911年11月に再び南極に向かいました。翌1月16日、暴風圏を乗り越え、南極のホエールズ湾に到達。5名の突進隊が激しいブリザードの中を9日間犬ゾリで進み、体力の限界となった場所に日章旗を立て「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。そして1912年6月20日、4万8千kmの大航海を終えた開南丸は、一人の死傷者も出さず芝浦に帰還したのです。探検を成功に導いた高度な航海技術と隊員たちの勇敢さは、海外の探検家からも称賛されました。
歴史的偉業を身近に感じられる埠頭公園では、今日も子どもたちが冒険心いっぱいで遊んでいます。

公園の遊具

トンネル型すべり台や吊り橋風の渡しなど、好奇心をくすぐる遊具に子どもたちは大はしゃぎ!

じゃぶじゃぶ池

夏は水遊びができるじゃぶじゃぶ池。地域住民によって開催される夏祭りでは、ここにカヌーを浮かべるイベントが行われるそうです。

舵の遊具

大人でもつい回したくなる舵の遊具。

すべり台

クジラは幼児向けの小さなすべり台。

すべり台

併設の埠頭少年野球場は、ナイター設備も整った本格的な軟式野球場。毎年夏にはここで港区小・中学生野球大会が行われます。

開南丸

東郷平八郎元帥が名付け親となった「開南丸」。

周辺一帯を「大和雪原」と命名

1912年1月28日、南極探検隊は南緯80度05分、西経156度37分に日章旗を立て、周辺一帯を「大和雪原」と命名しました。

砕氷艦初代しらせ

1982年から2007年まで南極観測に使われた「砕氷艦 初代しらせ」。1961年に日本南極観測隊により命名された「白瀬氷河」に由来しています。

初代しらせのスクリュープロペラ

埠頭公園には初代しらせのスクリュープロペラが展示されています。

アクセス情報

アクセス情報

住所:港区海岸3-14-34
ゆりかもめ「芝浦ふ頭」駅徒歩6分
JR「田町」駅徒歩14分

もうひとつのSTORY

い奈本

い奈本

「い奈本」は、芝浦花柳界の芸者だった稲本千世子さんが1968年に置屋を改装して始めた割烹料理店。旬の食材を使った絶品料理と親しみやすい接客で、地域の人々に愛されています。現在お店を切り盛りするのは二代目の実さんと三代目の圭吾さん。壁には、「若菊」の名で座敷に出ていたころの千世子さんの写真が、店を見守るように飾られています。

若菊さん

若菊さん

住所:港区芝浦1-11-11
営業時間:10:50〜13:30、17:30〜23:00
定休日:日曜、祝日

港区‒ 憩いの場 今昔STORY こぼれ話

強靭な精神と行動力で南極探検を実現

日本人初の南極探検で隊長を務めた白瀬 矗。寺の長男として生まれ、近所でも評判のわんぱく少年として育った白瀬は、11歳の時に寺子屋の先生から北極の話を聞き、探検家を志します。探検家になるため寺を弟に譲り、18歳で陸軍に入団。将来の北極探検に備え、千島探検の一員に加わるなど極寒での経験を積みました。ところが1909年、アメリカの探検家ピアリーが北極点踏破に成功。そこで白瀬は次なる目標を南極に定めます。南極探検に向け、帝国議会に補助金を申請しますが、政府はまったく支援をしませんでした。そこで白瀬は後援会を立ち上げ、寄付を募って南極探検にこぎつけます。集まった義援金7万1800円に対し、探検の総費用は推定約12万円。残り4万円(現在の1億円以上)は白瀬の借金となりました。探検を終えた白瀬は、極地で撮影したフィルムを携えて日本のみならず朝鮮、台湾まで講演に出かけ、ようやく借金を返し終わった時には74歳になっていました。

白瀬 矗

白瀬 矗(しらせ のぶ)
1861年、秋田県にかほ市(旧金浦村)生まれ。1946年没。辞世の歌は「我れ無くも 必らず捜せ 南極の 地中の宝 世にいだすまで」。


当時の南極探検隊の実際の映像を見ることができます!
映像でみる明治の日本「日本南極探検」
https://meiji.filmarchives.jp/works/02.html
制作/国立映画アーカイブ、国立情報学研究所