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港区探訪

港区ー憩いの場 今昔STORY

第4回 有栖川宮(ありすがわのみや)記念公園

第4回 有栖川宮(ありすがわのみや)記念公園

公園の西側にある大きな池。橋や石燈籠のたたずまいに風情を感じます。

小川のせせらぎに心やすらぐ、日本庭園式の公園

今回ご紹介するのは、広尾駅から歩いてすぐの有栖川宮記念公園。地域のランドマークとして住民たちから深く愛されてきたスポットです。

新緑、花吹雪、冬景色…… 一年を通して自然を楽しめる

有栖川宮記念公園は、広大な敷地に緑があふれる区立公園。樹木の種類や数がとても豊かで、春にはウメやサクラ、夏には港区の花でもあるアジサイが咲き誇り、秋には紅葉で一面が赤く染まるなど、四季折々の美しさを堪能できます。野鳥も多く生息し、カモ、キジバト、ウグイスなどのほか、運がよければカワセミを目にすることもできるそうです。
公園の面積は東京ドームよりも広い約6万7,000平方メートル。東京都立中央図書館がたつ高台から、広尾駅側の公園出入口がある低地に向かってゆるやかに傾斜する自然の地形をいかしたつくりで、丸太の階段を上ったり下りたりしながら公園を一周するだけでもいい運動になりますよ。

児童福祉を願って 与され公園に 国 色豊かなイベントも多数

江戸時代、この地には忠臣蔵で有名な浅野家の下屋敷があり、のちに奥州の大藩だった盛岡南部藩の下屋敷となりました。明治時代から昭和40年代にかけて、このあたりの町名が「盛岡町(麻布盛岡町)」だったのはその名残です。明治維新後の1896年には、有栖川宮威仁(たけひと)親王の御用地となります。親王はここに跡取りである栽仁(たねひと)王の新邸を設ける予定でしたが、栽仁王は早世され、のちに威仁親王も薨去(こうきょ)されたため、有栖川宮家は廃絶に。大正天皇は廃絶を大変惜しまれ、第三皇子光宮宜仁(てるのみやのぶひと)親王に有栖川宮の旧称である高松宮の称号を賜り、祭祀を引き継がれました。子どもの遊び場に深い関心を寄せられていた高松宮殿下は、1934年にこの地を東京市に賜与。同年、有栖川宮記念公園として一般に開放されることになりました。
現在、園内には、遊具のあるエリアや梅林などいくつもの広場が設けられており、子どもから大人まで多くの人たちが、体を動かしたり、自然を愛でたりとさまざまに楽しんでいます。樹木観察会やフラワーアレンジメント教室といった定期イベントや、各国大使館と連携した各種ワークショップも開催されていますので、チェックしてみてくださいね。

騎馬像

威仁親王の兄である有栖川宮熾仁(たるひと)親王の騎馬像。明治後期に千代田区の旧参謀本部構内に建立され、1962年にここに移設されました。

カルガモ親子

野鳥が多く、バードウォッチングにも最適。7月頃にはカルガモの親子が姿を見せます。

噴水

丘の上には噴水のある広場が。

渓流

園内にある大小2つの滝から、西側の池に向かって渓流が注いでいます。水辺の生き物を探しながらの散策も楽しそう。

新聞少年の像

「新聞を配る少年保護育成の会」によって1958年に建立された、新聞少年の像。同様の像が国内各地にありますが、こちらが第1号。

三角点

園内に設置された三角点。三角点とは正確な測量のために国土地理院が作った基準点のこと。どこにあるか探してみてくださいね。

石垣岩

高台にあるベンチには、幕末に海上防備のため築かれた第一台場の石垣石が使われています。

アクセス情報

アクセス情報

有栖川宮記念公園
住所:港区南麻布5-7-29
東京メトロ日比谷線「広尾」駅徒歩3分

公園近くの もうひとつの今昔STORY

ナショナル麻布

ナショナル麻布

「ナショナル麻布」は1962年創業のスーパーマーケット。各国大使館が点在するエリアだけあり、一般のスーパーでは見かけない輸入食材が大充実!日本でありながら「日本食」コーナーが設けられているのもユニークです。現在はありませんが、創業時はガソリンスタンドや病院などが併設されていたそう。地域に寄り添い60年もの長きにわたって親しまれてきた国際型スーパーに、公園の帰りに立ち寄ってみてはいかが?

住所:港区南麻布4-5-2
営業時間:9:00~20:00
定休日:年始のみ休業

港区‒ 憩いの場 今昔STORY こぼれ話

有栖川宮(ありすがわのみや)記念公園

有栖川宮(ありすがわのみや)記念公園

 江戸時代 1862年 の地図。「南 美濃守下屋敷」とある場所が、現在の有栖川宮 念公園 『 正港区 代沿革図 布・六本木』より 。

有栖川宮(ありすがわのみや)記念公園

現在の有栖川宮 念公園周 の地図。

400年で様変わりした広尾の街

現在の有栖川宮記念公園一帯は、ハイセンスなショップや住宅が軒を連ね、世界各国の人々が行き交う国際色豊かなエリアですが、江戸時代にさかのぼると、武家屋敷がたち並んでいました。また、天現寺橋の先の方まで「広尾原(ひろおのはら)」と呼ばれる野原が広がっており、春にはつくしが多く生えることから「つくしが原」とも呼ばれました。もともとは下渋谷、下豊沢という2つの村にまたがる野原でしたが、江戸時代の中ごろに広尾と改称されたようです。右の図では、江戸時代の市井の人々が広尾原をのんびりと歩く様子が描かれています。

有栖川宮(ありすがわのみや)記念公園

秋の広尾原を描いた図(『江戸名所図会3巻』「広尾原」1834 ~1836年刊 国立国会図書館ウェブサイトより転載)。