ここから本文です。

ふれあいコラム

今、話題の人物をクローズアップ!
作家 斎藤明美さん

作家

斎藤 明美 さん

松山善三、高峰秀子を活字で伝えていきたい

斎藤さんが松山善三さん・高峰秀子さんご夫妻の養女になられたきっかけについて伺います。

「養女になったきっかけ」ではなく、正確に言えば松山と高峰が私を「養女にしたきっかけ」ということになるのだと思いますが、それは二人に訊かないと、私にはその理由はわかりません。私が答えられるのは「松山と高峰と親しくなったきっかけ」で、週刊誌の記者だった私が高峰に寄稿やインタビューのお願いをしたのが始まりです。そして高峰に3年越しで月刊誌の連載をお願いして、ようやく連載が実現した頃に、郷里の私の実母が難病にかかり余命を宣告されたのです。私は兄弟もいないので、週刊文春の仕事をしながら3日おきに郷里の高知と東京を往復する生活を続けました。
その時、高峰が本当に心配してくれて、母が死んだ時は、絶望した私を、それこそ深い穴から助け上げてくれるように、毎日、毎日、家に呼んで手作りの温かいご飯を食べさせてくれたんです。それを松山もまた優しく受け入れてくれて……。ですから二人は、おおげさでなく、私の命の恩人なんです。
養女になる等夢にも思っていませんでしたし、二人がそのことを私に告げた時には、まさに驚天動地でした。

今回、お二人が長年に渡りお住まいになった港区で、お二人に縁のある作品の上映と講演会を実施することになりました。ご感想、またはこれだけは伝えたい、ということがありましたらお聞かせください。

高峰が現在の地に住み始めたのは、確か昭和27年、今から60年以上前で、高峰もまだ独身の頃です。3年後、そこへ結婚した貧しい助監督の松山がリヤカー一杯の古本だけ持って移ってきたわけです(笑)。ですから二人と港区とのご縁は長くて深いわけで、またこの地で二人は本当に幸せな生活を送りましたから、私としては港区の皆さんに感謝すると共に、二人の業績だけでなく、何よりその素晴らしい人間性を知っていただきたいと願っています。

ご夫妻の晩年の日常生活について、お聞かせください。

松山は打ち合わせに外出したり、書斎で脚本を書く。高峰は食事作りと読書。私がよくふざけて、「♪おじいさんは書斎で脚本を、おばあさんは台所でご飯」と節をつけて唄うと、高峰が一緒に唄う等ということがありました(笑)。
なかなか映画が作りにくい時代でしたから、松山が脚本を書いても映画は完成しなかったり……だから松山としては不本意なこともあったと思いますが、高峰は家のことをするのが好きでしたから、「今が一番幸せ」と言うのを私は何度も聞きました。穏やかで幸せな毎日だったと思います。

上映作品「カルメン故郷に帰る」について、エピソードがありましたらお聞かせください。

本作は、初めて高峰と松山が一緒に仕事をした記念すべき作品です。高峰は木下恵介監督との初めての仕事で、松山は木下組の助監督になってまもない頃でした。ですが、「一緒に仕事」と言っても、二人の間には非常に距離があり、たとえば本作でストリッパーのリリー・カルメン役に扮した高峰が、浅間山の丘の上で朋輩役の小林トシ子さんと唄いながら踊っている場面で、遠くに映る牛を、画面に入るように追っていたのが助監督の松山でした。つまり二人は主演女優とペエペエの助監督、”身分が違っていた‶わけです(笑)。
でもこの作品から徐々に挨拶したり、言葉を交わすようになったのですから、たとえそれが仕事上のことであっても、二人を結びつけるきっかけになったと言える重要な作品だと思います。

松山善三さん・高峰秀子さんご夫妻のご遺志を、今後どのように引き継がれていくのでしょうか。

二人が作った映像は残っていくと思うのですが、私は文章を書くことしかできませんから、「こんな人間がいた」ということを活字で残していきたいと思いながら本にしましたし、これからも続けていきたいと思っています。そして松山と高峰の遺産の大半を二人が交際を始めた地である小豆島町に寄付して、それを小豆島から映像を発信する記念事業に使っていこうということになりましたので、映画界で生きてきた二人の遺志をそのような事業に生かしていければと思っています。

港区探訪もご覧ください!

プロフィール

作家 斎藤明美(さいとうあけみ)さん

斎藤 明美(さいとうあけみ)さん
高知県生まれ。津田塾大学卒業。高校教師、テレビ構成作家を経て、「週刊文春」の記者を20年務める。1999年、初の小説「青々と」で第十回日本海文学大賞奨励賞受賞。2009年、松山善三・高峰秀子夫妻の養女となる。著書に『高峰秀子の捨てられない荷物』『最後の日本人』『家の履歴書(全3巻)』『高峰秀子の流儀』『高峰秀子との仕事1・2』等。